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『ペンギン・ハイウェイ』はおっぱい映画じゃない!【ネタバレなし感想レビュー&ネタバレあり考察】

投稿日:2018年8月22日 更新日:



あらすじ

 勉強家のアオヤマ君(cv.北香那)は小学4年生。日々、様々な「研究」をノートに綴り、同級生のウチダ君(cv.釘宮理恵)たちと探検隊を組織したりと、小学生にしては忙しい毎日を送っている。そんな彼が気になっているのは通っている歯科医院のお姉さん(cv.蒼井優)だ。彼女はアオヤマ君を「少年」と呼び、二人の仲は日々進展中。そんなある日、住宅街にペンギンたちが現れるという事件が起こる。持ち前の研究精神でこの謎に挑むアオヤマ君だったが、事態は思わぬ方向に転がっていく。

レビュー&考察

石田監督らしい爽やかな映像表現の魅力

 お姉さんが夏の澄み渡った青空にコーラの缶を投げる。弧を描きながら赤いアルミニウムの肌がペンギンのモノクロームへと変態していく。この映画全体を象徴するような印象的なカットだ。

 映画『ペンギン・ハイウェイ』で驚かされるのは、まず、その色彩の豊かさだ。夏の話、ということもあるだろう。しかし、森見登美彦原作ということから個人的に連想されるのが、やはり湯浅政明監督による傑作TVシリーズ『四畳半神話大系』という人間にとっては、このカラフルな世界観は目に眩しい毒のように映る1。明るい光の差し込む部屋から始まり、緑あふれるベッドタウンの通学路、箱のような可愛らしい色とりどりの家々、そして森の奥に広がる草原に佇む「海」。このカラフルな世界にモノクロームのペンギンたちが潜り込んでくる。映画全体を象徴する「異物」であるペンギンを際立たせる手法としても、この色彩豊かなビジュアルは効果的だ。

 自意識を拗らせた青年もいなければ、「月の裏側から来たような顔」も出てこない。登場人物たちも、森見作品らしからぬ爽やかさである。主人公のアオヤマ君がまずかわいい。どこにでもいそうな小学生らしい容貌に、理屈っぽい内面のアンバランスさが愛おしい。そしてアオヤマ君の憧れる歯科医院の「お姉さん」。理知的なアオヤマ君の初々しい凛々しさと対照的に、ぼんやりとして掴みどころがない雰囲気が上手く表現されていて、このあたりも原作のイメージにぴったりだ。キャラクターも美術も、ビジュアル面は石田監督の側に強く引き寄せられているのだが、例えばアオヤマ君の友人であるウチダ君(cv.釘宮理恵)などは監督の前作である『陽なたのアオシグレ』(2013年)で主役を務めた陽向くんそのものである。このへんの細かいファンサービスというか、ニヤリとさせる仕掛けも嬉しい。キャラクターデザインも「アオシグレ」と同じく新井陽次郎氏だ。

 石田祐康監督は2009年の短編『フミコの告白』で数々の賞を受賞。日本のアニメーション界では新進気鋭の若手という表現が今もっとも似合う人かもしれない。柔らかい雰囲気とアニメらしい伸びやかな動きが魅力的だ。『ペンギン・ハイウェイ』は監督の初の長編作品にあたる。ビジュアル全体からも過去の作品とのつながりを強く感じたが、とりわけそれが大きかったのはやはりクライマックスの「ペンギンパレード」の場面だろう。街なかのあらゆるものがペンギンに変化していくアニメーション的な悦楽。アオヤマ君とお姉さんを乗せて街路を走り抜けていく爽快感。どうしても「アオシグレ」のカメラワークを連想してしまう。このポップな色彩感覚とキュートなキャラクター、動きの楽しさはアニメーションならではの魅力がふんだんに詰め込まれていて、この映像表現だけでも見ごたえは十分だ。

「未知との遭遇」と「世界の果て」

 この映画は「未知との遭遇」を描いた作品だが、いくつかの「未知のもの」が登場する。

 まず、ペンギンが登場する。住宅地に突如出現したペンギンたちの謎を巡って序盤の物語は進んでいく。ペンギンたちは突如として姿を消したり、異常に頑丈だったりといった特徴を備えていて、明らかに普通のペンギンではない。面白いのはアオヤマ君が終始一貫して科学的視点を以て解決を模索しているという点だ。お姉さんが「科学の子」と呼ぶように、アオヤマ君は進歩主義者である。「大人になるまでにどれだけ賢くなってしまうだろう」というセリフからもわかるように、少年は挫折を知らない。あらゆる出来事は科学によって解決可能であるという、驕りともいえない純朴で論理的な信念によって、アオヤマ君は様々な条件の下で「ペンギン生成」の実験を繰り返す2。ともすればファンタジー的な事象として片付けてしまうようななものを、サイエンスで解決しようとするところにこの物語の面白さの一端がある。

 サイエンスフィクション的な色彩は、中盤の「海」の登場からさらに濃くなっていく。歯科医院でのスズキ君(cv.福井美樹)との会話の中「スタニスワフ症候群」という単語が(やや露骨に)出てくることからもわかるように、この「海」はスタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』に登場する「海」を下敷きにしている。アオヤマ君はこの「海」に対しても共同研究者であるハマモトさん(cv.潘めぐみ)、ウチダ君たちと共に、あくまでも科学的なアプローチによって謎を解き明かそうとする。子どもたちが不思議な出来事に遭遇するというのはジュブナイルSFの典型だが、普通であればその翻弄されるだけであるところを、『ペンギン・ハイウェイ』の子どもたちはその事象を解明し、コントロールしようと試みる。大人であれば躊躇してしまいそうな不可解な出来事に対して果敢に挑んでいく姿は、実に子どもらしい無邪気さと危うさにあふれている。

 そして「お姉さん」がいる。アオヤマ君が通う歯科医院の看護婦であり、明らかに普通の大人たちとは違っているところにアオヤマ君は惹かれている。日々勉強を怠らず小学生らしからぬ論理的な思考をするアオヤマ君が「子供げない子供」として設定されているなら、お姉さんは全く正反対の「大人げない大人」として設定されている。普通の大人のようにはっきりとせず、のらくりくらりとした言動でアオヤマ君を惑わせる様が実に魅力的だ。なにより彼女はペンギンを生み出せる。

 「未知のもの」たちに共通するのは、「近くて遠い」ということだ。スズキ君(cv.福井美樹)が言うように「ペンギンなんて水族館で見れる」のだけど、しかし本来のペンギンは南極に行かないと見ることは出来ない。「海」は森の奥の草原にあっていつでも見に行くことができるのに、本当の海が劇中に現れることはない。この映画においては(本来の意味での)「海」は、町の「外部」の暗喩であり、それはすなわちアオヤマ君にとっての「世界の果て」だ。「お姉さん」もまた、少年にとっての「世界の果て」として描かれている。単に彼女が大人であるから、というだけではない。彼女との年齢差は縮まることはないし、論理的なアオヤマ君と非論理的な側についているお姉さんの思考はどこまで行っても交わらない。それゆえに彼は彼女に惹かれる。お父さん(cv.西島秀俊)が言うように「世界の果て」はすぐそばに転がっている。物語自体は小さな郊外の街で完結しているのだが、しかしだからこそ、こうした「未知のもの」たちは容易に外部と(「世界の果て」までも)接続していく。こういったある種の都合の良さ、ファンタジーとサイエンスの狭間を越境していくような軽やかな展開がとても心地よい。

「お姉さん」は性的に消費されているのか?

 結論から言ってしまうと物語中で「性的に消費されている」という描写は無いし、性的な暗喩も見られない。アオヤマ君がお姉さんの「胸」に注目しているのは、あくまでも科学的な興味からであって、例えば母親やハマモトさんのそれとの大きさを比較することはあっても欲情することはない。「触ったらどんな感触なのだろう」と言うものの、お姉さんが寝てしまったときでも彼女の身体に触れることはない。ここからは他者の身体に対する尊重が読み取れないだろうか。もちろんそれが性の目覚めであることを示唆する描写、例えばお姉さんに「胸ばっかり見ている」と指摘された際に「見てません」と答えるような恥じらう仕草などはあるのだけれど、ウチダ君に対して「おっぱいのことを考えると平和になる」と言っているように、欲望の対象というよりはむしろ「未知のもの」に対する純粋な興味のほうが大きいように思える。

 この映画において「おっぱい」は女性のセクシャルな面の表象でありつつも、それ以上に少年にとっての「未知のもの/理解の及ばないもの」を指し示す暗喩でもある。論理によって身を固め、直線的なフォルムを持つアオヤマ君に対して、曲線の存在である「おっぱい≒おねえさん」(そして球体の「海」と柔らかいペンギンたち)は、その形態によって「未知性/外部性」を饒舌に語る。

 問題は、登場人物たちのお姉さんへのアプローチではなく、彼らを写し取るカメラの目線だ。アオヤマ君の視線を借りて、お姉さんの首から下を切り取るようなカメラワークに典型的だが、明らかにこの視線は性的な側面を強調している。物語の内部ではなく、外部、すなわち視聴者に「性的な消費」を促すこのような表現は、(個人的には)とりたてて過激であるとは思わないし、日本においては半ば形骸化した定形表現とも言える。もちろん、そのような事実が不快に感じた人の溜飲を下げるわけではないし、不快感に対する免罪符ともなりえない。それは個人の価値観に基づく感じ方の問題だからだ3。不快感を感じた人は大いに声を上げるべきだし、このような表現に対する無感覚をアップデートする時期に来ているのかもしれないが、それをもってこの映画全体を否定する要因とするのは難しいと思う4

二つの古典から。『ソラリスの陽のもとに』と『鏡の国のアリス』(ネタバレあり)

クリックすると開きます(ネタバレがあります)

 この映画の下敷きになっているのは二つの古典文学だ。一つは先にも挙げたスタニスワフ・レムの名作SF『ソラリスの陽のもとに』、そしてもう一つはルイス・キャロルによるファンタジーの傑作『鏡の国のアリス』である。

 『ソラリスの陽のもとに』は惑星ソラリスの全域を覆う謎の生命体「海」とのコンタクト(あるいは非コンタクト)を描いた作品だ。『ペンギン・ハイウェイ』の劇中では、森の奥の草原に「海」が出現する。その前にも歯医者の場面で「スタニスワフ症候群」という単語が出てくるのだけど、この「海」の登場によって、「ソラリス」からの引用が明確になる。となると、「お姉さん」の正体は…という連想が働くのだが、果たして彼女は人間ではないことが物語後半で明らかになる。ある意味で、この映画は「ソラリス」の変奏のようなものとして作られている5

 一方、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』は『不思議の国のアリス』の続編として執筆された。「不思議の国」のモティーフはトランプだったが、「鏡の国」ではチェスが重要なモティーフとなる。この作品においてアリスはチェスの駒となり、彼女が女王に成るまでの物語が描かれる。かの有名なハンプティダンプティも、登場するのは実はこの「鏡の国」である。『ペンギン・ハイウェイ』の中ではお姉さんが無意識のうちに生み出す怪物・ジャバウォックとアオヤマ君たちが熱中しているチェスにモティーフが取られている。

 この二つの作品に共通するのは、「非合理性」「喪失」だ。「ソラリス」において、主人公クリスをはじめとする「観測ステーション」の科学者たちは「海」の分析に明け暮れている。「海」は生物なのか、単なる反応機械なのか、知性はあるのか、もし知性があるならコミュニケーションは可能なのか…。見かけ上、会話可能な「客」の訪問によって研究は進むと思われたが、突きつけられたのは圧倒的なコミュニケーション不可能性だった。『鏡の国のアリス』におけるジャバウォックはより直接的な「よくわからないもの」の象徴だ。この奇怪な生き物は劇中に登場することはなく、回りくどい詩を以て語られているだけなのだが、それゆえに一層、その「よくわからないけれど恐ろしいもの」という性質は強化されているように思える。「アリス」の世界自体が夢の世界であり、そこを支配しているのは基本的には不条理/非合理/非現実、すなわちアオヤマ君の志向する合理的な科学の世界とは真逆を向いている。そして、これらの下敷きとなった物語群と同様に、『ペンギン・ハイウェイ』においても、ペンギンや海、お姉さんの謎は解かれることはない

 「謎が解かれない」というのは重要なポイントだ。なぜなら「非合理的なものとの遭遇」は「喪失」へと直線的につながっているからだ。この映画は「未知との遭遇」を描いた作品だと先に書いたが、それは必ずしも少年が「未知なるもの」を理解して先に進む、という意味ではない。むしろその反対に、この映画は、アオヤマ君という合理主義者が、理解出来ないものの前に敗北する姿を描いている。「海」「ペンギン」「ジャバウォック」、そして「お姉さん」はいずれも「未知のもの」であり「外部(≒世界の果て)」の象徴であると同時に「世界の理不尽さ」、端的に言ってしまえば「死」や「喪失」の象徴としても機能している。劇中で唐突に挟まれる妹との会話が予兆であるかのように、物語の最後、あらゆる非合理的な存在は消滅し、普通の日常が訪れる。『鏡の国のアリス』でアリスが目を覚ましたように。

 そして、ここに横たわるのは痛烈な喪失の感覚だ。「ソラリス」でクリスがハリーを失った世界を噛みしめるかのように、アオヤマ君はお姉さんの不在に嘆息する。アオヤマ君は進歩主義者である。彼はあと何日経てば自分が大人になるかを知っているし、この「夏休み」がいつか終わってしまうことも知っている。彼は少年の世界の外に広がる理不尽さの荒野に敗北するが、それでも「世界の果て」へと走っていく。楽天的とも言える口調で彼は言う。「世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。」しかし少年はもう「世界の果て」が「喪失」につながるということも知っているのだ。

 『鏡の国のアリス』は、ルイス・キャロルが少女から女性になりつつあるアリス・リデルへの手向けとして書かれた作品であり、(逃れようのない)現実を反映するようにアリスが女王になることで幕を閉じる。ここにはキャロルの少女愛的な一面、すなわち可憐な少女の過ぎ去りゆく一瞬を切り取ろうとする意思が伺えるが、この雰囲気は『ペンギン・ハイウェイ』のそれと通底している。少年の挫折と喪失を通して、この映画は「忘れられない夏休み」を美しく描き出している。

基本情報

ペンギン・ハイウェイ  119 min

監督:石田祐康

音楽:阿部海太郎

脚本:上田誠

撮影:町田啓

出演:北香那/蒼井優/釘宮理恵/潘めぐみ/福井美樹/能登麻美子/久野美咲/西島秀俊/竹中直人

公式サイトhttps://penguin-highway.com/

NOTES

  1. 『有頂天家族』があるじゃないか、という向きもあろうが、確かにあれも夏の爽やかな話が多くてカラフルな京都が魅力なのだけれども、久米田康治先生がキャラデザでドロドロした陰謀話ということもあってやはり本作の爽やかさにはかなわない
  2. 片渕須直監督の『アリーテ姫』を思い出す場面だ。
  3. SNS上での「おっぱい!おっぱい!」の連呼は自分でも若干不快だった
  4. 「終わりよければ全て良し」ではないけれど、「おっぱい」一つ取って「最悪の作品」と評することもできなくはないが、なかなか厳しいものがあると思う。
  5. あまり関係ないけど、「ソラリス」×「ハイウェイ」だとどうしてもタルコフスキー版『惑星ソラリス』の首都高のシーンが思い出される。出されません??

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