今月のおすすめ

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 東京郊外のとある豪邸。ギャンブル狂の父・修次(いとうせいこう)の破産により家を手放すことになった笹谷家の最後の一日を描く。父に苛立つ娘の昭子(南果歩)が何気なくツイッターに投稿したパーティー開催のツイートにつられて、様々な奇人変人が笹谷家に集合し、物語は明後日の方向に加速していく。

 全くノーチェックだったのだけどキネマ旬報の星取表で544という超高評価で(ちなみに何とは言わないけど隣の映画は111というこれまた衝撃的な点数!)、さらに数年前に観た『水の声を聞く』の山本監督ということで観に行ったらこれが大正解!ヤクをやりながら作ったとしか思えないカオスすぎる展開で、まあ大学生の時観ていたら「★一つ!」と叫びだしたであろう狂った映画。こういうわけのわからん映画もちゃんと消化できるようになるので年を取った甲斐がある。

 

 ツイートに釣られて笹谷家にやってくるメンツの有象無象具合がまずすごい。結婚式を挙げたいインド人と日本人のゲイカップルから始まり、依頼主にタメ口の引越し業者、謎の中国人と生意気な息子、修次の妹のおばちゃん、日本一周旅行中の爽やかイケメン、陽キャ、放浪する爺さん、死体、近所のガキ、別れた笹谷家の妻、コーヒー屋、屋台、出前のみなさん、死んだ爺さんと婆さんの幽霊、死体その2、ヤクザたち、町内会長、酔っぱらいの女、笹谷家でこっそり薬物作ってるヤク中、警官、脈動するコーヒー豆…などなどなどなど…。

  

 こんな濃すぎる登場人物たちに輪をかけてイカれてるのが、先が全く見えない(見える展開もある。例えばコーヒー豆が怪獣化するあたりとか)超展開の数々で、人生における全てが包含されていると言っても過言ではなく、結婚式から葬式、ミュージカルが始まったかと思えばインド映画のダンスシーンが盆踊りへとつながり、ヤクで焼香してみんなトリップする葬式では死体が起き上がって信仰が生まれ、人の生き血で怪獣と化したヴァギナめいたコーヒー豆が石像と死闘(一瞬で終わる!)を繰り広げるかと思えば、カップルたちはまぐわい、子供が生まれるかと思えば怪獣に食われた連中が再誕し、ブランコから降りられずに木になった少年は「常滑の水」で蘇り、ゲイの結婚式ではアイスピックの交換があり…とまあ実際にはこれの数倍の出来事が斜め上の方向からどんどん飛んでくる。これで90分ちょい!カオス感は石井克人監督の怪作『茶の味』を100倍に煮しめたようだし、一晩で宴が終わるという意味ではアニメ映画の『夜は短し歩けよ乙女』を思い出す。観る薬物とでも言うべきか、観ている間の高揚感、祭りの後の寂寞感と多幸感は他では味わうことができないものであり、唯一無二の映画だ。コロナ禍下にあって、これほどの祝祭感を味あわせてくれるというだけでも万難を排して観るべき価値がある。

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観た映画一覧(時系列順)

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 いやあ、まさかこんなに売れるとは…。原作も初期の頃から追っていてTVシリーズももちろん履修済みなんですが、それにしてもよもやよもや!という感じですね。いや、もちろん、いい作品であることは間違いないんですが、ここまで伸びるとは…。ジャンプ連載とはいえ、アニメは深夜枠だったし、鬼とはいえ首がバンバン飛ぶし、主人公の自○描写はあるし、よくもまあこれがお子様たちまで受けたなあ…。これがいけるんやったら『チェンソーマン』アニメ化もできるやろ(無理や…)(と言ってたら普通にMAPPAでアニメ化が決まってめでたい!)。

 さて映画としての『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』。主人公はもちろん煉獄杏寿郎兄貴ですが、第一印象がひどすぎて笑ってしまうんですよね。「うまい!うまい!」の声が想像の10倍くらいでかい上にどこを見ているのかわからない目が怖すぎる。まあ原作準拠なんですが…。原作読んでいてもあれはビビるわ。で、この「ちょっとおかしい人なのかな…」みたいな感じの煉獄さんの印象が物語の進展とともにどんどん変わっていくのがこの映画の見所。炭治郎一行は列車を支配する鬼・魔夢の血鬼術によって夢の世界に囚われてしまう。このあたりのジョジョ(というかデス13)的な頭脳戦(「攻撃されてる!」のあたりとかすごくそれっぽい)も面白いのだけど、この中で煉獄さんの過去と人となりを描写するというのがとてもスマート。回想シーンって基本あまり好きじゃないんだけど、こういう理想化された世界であえて過去を振り返るというのは上手い。目覚めてからの人間離れした狭い列車内での戦闘アクションもさすがユーフォークオリティで、魔夢の正体のくだりも原作を読んでいてもやはり驚かされる。

 

 ところで、個人的にとても良かったのが、列車を支配していた魔夢の最後。『鬼滅の刃』の特徴として、鬼たちの残虐な行為を描きつつも、その鬼が倒された際には、かつて人間だった頃の彼らの人生の苦難を描き、最後の瞬間に寄り添っていく、という展開が定型で、見どころの一つなのだけど、今回の鬼にはそのような展開はない。代わりに魔夢がひたすら、ああすればよかった、こうすればよかった、あいつが悪い、こいつが悪いと責任をなすりつけ始めるのが、どうにも人間臭い、というより中間管理職的なサラリーマンの悲哀のようなものを感じてしまい、それまでの死闘が嘘みたいな俗っぽさでむしろそこが面白くもある。彼の能力の微妙さといい、今回のプロジェクトの企画段階から取材したドキュメンタリータッチのやつとかあったら面白そう。別の列車でリハーサルしたり人間のバイトをリクルートしたりめっちゃ大変だろうな…。まあ今回は敵に鬼(禰豆子)がいたり、眠った方が強いやつ(善逸)がいたり被り物で視線が捉えられないやつ(伊之助)がいたりと運が悪かったところはあるけど(それにしても運が悪い!よもやよもやだ)、結局の所、敗因はリサーチ不足といったところでしょうか。

   

 なにはともあれ、日本映画界における新記録の樹立、おめでとうございます!

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 荒野の只中にある小さな村・バクラウ。長老の老婆カルメリータが亡くなり、テレサは故郷のバクラウに戻る。しかし村の周囲で不穏な出来事が立て続けに起こり、人々の間に不安が広がる。謎の浮遊物体、給水車に打ち込まれる銃弾、めったにやってこないはずの観光客…。そして村外れの農場で惨劇が起こる…。

  

 前半はとにかく展開が読めず、正直言うとわけがわからない。ポスターでもUFOがいい感じの位置に置かれているので、SF的な怪異が村人を惨殺していくタイプのよくあるSFホラーかな?と思ってみていると物語は思いもよらぬ方向に曲がっていくので驚かされてしまう。いきなり地面に足がついたというか、怪異の正体には驚くと言うかドン引き。あいつが怪しいのは最初からわかってるんだけど、よくもまああんなえげつないことを思いつくよな…。子供を含めて、村人たちが惨殺されていく後半までの展開はひたすらつらい。

  

 村人の怒りが爆発する後半は一転して西部劇の様相。民衆が武器を取り逆襲に転ずる様は快哉を叫びたくなるのだが、しかしそういう脳天気な感想を述べるのを躊躇してしまうくらいのゴア描写で、映画としては盛り上がるのだけど、どうにも嫌な感じが拭えない。白人と有色人種、地方と都市の分断、水資源をめぐる対立、政府の腐敗といった現代社会の病巣がてんこ盛りで、グローバル化した世界の縮図をブラジルの片田舎に凝縮してみせた手際は見事だ。白人たちの中での格差の存在をさり気なく描写し、単なる加害者ではないという目配せをするのも上手い。ローカルの歴史を軽視する先進国の白人たちが歴史博物館で歴史に逆襲されるというクライマックスの展開が素晴らしいが、どんな些細なコミュニティにも重層化された歴史があり、それは何物にも代えがたい大切な物語だ。

 完全無防備の全裸老齢男性が反撃の狼煙を上げる場面が最高にアガる。謎めいた肝の座った女医役のソニア・ブラガの演技が素晴らしい。

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 黒田みつ子31歳。おひとりさま生活を満喫する彼女には、脳内に「必ず正しい答えをくれる」相談役「A」がいる。常に正しい「A」とともに異性に縁のない生活を送ってきたみつ子だったが、取引先の年下男子・多田(林遣都)に次第に惹かれていく。

 この映画の見所はやはり主人公・みつ子を演じるのん(能年玲奈)の素晴らしすぎる演技だろう。みつ子は常時脳内の「A」との会話を繰り広げていて、傍から見ると普通にやばめの人なのだけど、のんの芝居によってそれはチャーミングなものへと変化している。印象的なのは普段のほほんと暮らしているみつ子の中に燻る怒りが爆発する場面だ。タイトルである「私をくいとめて」が出てくる後半のホテルの場面も素晴らしいが、やはり中盤の温泉でみつ子が発する「やめなさいよ!」には驚かされた。この場面は撮影も鬼気迫るものがあり、不適切な表現かもしれないけれど、みなぎる緊張感からは色気すら感じられる。今年の映画全体を見渡してもこれ以上の名場面はちょっと思いつかない。

 この映画は表層的には31歳という、いわゆるアラサーの女性が新しい恋に一歩を踏み出す恋愛映画なのだけど、その根底にあるのは生きづらさと孤独を抱える一人の人間が世界と真っ向から向き合っていく普遍的な物語だ。前述の温泉でのセクハラや序盤に描かれるコミカルなお茶くみの場面、同級生を訪ねてイタリアまで行けば彼女は妊娠していて置いてきぼり感を感じてみたり、好きになった相手の嫌なところが見えてしまい「こんなことなら孤独で良かった」と吐露したりもする。頭の中の「A」はそういう時に解決法を示してくれるのだけど、結局彼も自分自身に過ぎなくて、だからこの映画はそういう堂々巡りの一人芝居から外の世界に出ていく、ある種の解放の物語でもあったりする。

 ところで本筋とはほとんど関係ないのだけど、2箇所ほど片渕須直監督の『アリーテ姫』を思わせる場面があり、のん→『この世界の片隅に』→『アリーテ姫』という変な回路ができてしまった。あれは原作にもあるのだろうか…。めちゃくちゃ『アリーテ姫』だったけども…。

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 「シン・エヴァ」公開前と言うことでロードショーぶりにスクリーンで鑑賞。やはりめちゃくちゃおもしろいということを再確認した。アバンタイトルの仮設五号機の戦闘アクションからもうテンションあがる。Qもそうだけど、アバンで人を惹き込むのが本当に上手いよなあ。あまり指摘されてないような気がするけど、仮設五号機と第3使徒のあたりは聖ゲオルギウスの竜退治がモティーフですよね。だから何、ということはないのですが。

 本編も7、8、9、10と立て続けに使徒が来襲してくる上にアスカは来日するわラブコメパートは始まるわで盛りだくさんで目まぐるしいのが楽しすぎる。戦闘アクションの合間合間に日常パートが挟まってくるのが総集編感があっていいですね。まあもう元の話からはガンガンかけ離れてくるわけですけど。

 やはり作画がいいですね。日本のトップアニメーターが集まっているだけのことはあります。第8使徒戦のダイナミックな走りのカットや終盤の第10使徒対獣化弐号機のあたりが印象的なんですが、個人的に好きなのは第3新東京市の朝を描いた場面。「序」の夕景の中で立ち上がってくる兵装ビル群と対照的に、朝日の中、人々の生活の場としての要塞都市が浮かび上がってくる様は本作の最後とQで起きることを思うとまあ監督も意地が悪いなあ、と。この場面、音楽も最高なんですよね。

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 「破」に続けて同日鑑賞。破からQまで3年も待ったことを考えると当日にすぐ観れるのはありがたすぎる…。「シン・エヴァ」記念で4本連続オールナイトとかやってくれたら絶対行くわ。で、続けて観ることで見えてきたものもあって、初見の時は「ミサトさんが狂った!ひどい映画!」という印象だったんだけど、今回観たら割とヴィレ側に感情移入できるようになったりして。まあこれは年取ったってことなんですかね。しかしまあ14年経ってんだから誰か説明してやれよ、とは思うものの、14年の間に何があったからつらつらと説明されてもそんなんエヴァじゃないよな、とも思うわけで…。難しいなあ。やはり初見の時に感じた「わけのわからなさ」「置いてきぼり感」も大事だったのではないか。そういう風に人の感情を逆なでして挑発してくるあたりがエヴァの本質なのではないか。とまあそんなことを考えながら観ていたわけです。わけがわからないのはやはり正しい。進化とかパラダムシフトってのはそういうもんじゃん?

 この映画もまたしてもアバンタイトルが印象的。ブースターの点火と切り離し、そこから生じる微細なパーツを重箱の隅をつつくように描き出すあたりは『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の発射シーンを思い出す。続くヴンダーの発進シーンも最高!ブリッジの連中も新顔多いのに全く説明ないし、起きたばかりのシンジくんとシンクロして全く別の世界に放り込まれる感じ。ヴンダー自体も小学生が考えたようなバカでかさ、昭和の空想科学作品から出てきたかのようなデザインが最高of最高!よくわからんとこにパラボラアンテナついてるのとか。随伴する艦艇もあえてテザーが見えるようなデザインされてるし、やっぱりタイトルのQは「急」と『ウルトラQ』をかけてるんだろうなあ…。特撮オタクの庵野総監督らしい。

 カヲルくんとのピアノ連弾とか廃墟になった第3新東京市とか冬月先生との将棋とか見どころは多々あるんですが、一番気になるのはシンジくんの持ってたウォークマンですよ。最後、地面に落ちてたけど、ちゃんとアヤナミが拾ってくれたのだろうか…。最終章のタイトル『シン・エヴァンゲリヲン劇場版𝄇』で最後の「𝄇」は繰り返し記号らしいし、絶対、例のウォークマンがキーアイテムになってくるはずなんですが…。それにしても公式Twitterですら「𝄇」を付けてないのなんなんですかね?あれはタイトルの一部ではないってことかな…。リスト制作委員会的にはどうなんだろうか…。何はともあれ、1月23日の上映が楽しみすぎます。

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 この映画もまた今月の最初に観た『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』と同じように「欲望と誘惑」の物語だ。幼少時のダイアナがアマゾン族のトライアスロンに挑戦する見ごたえがたっぷりのアバンタイトルが終わると舞台はタイトルにもある1984年へと飛ぶ。前作の1918年は戦争の時代だった。わかりやすい陰謀があり、わかりやすい敵がいた。66年後を描く本作は複雑な世界だ。最初に戦いの舞台となるショッピングモールがまさにそれを表している。人々は無秩序に動き回り、おのれの欲望のままにものを買い漁る。並べられる商品の暴力的な色彩と形態の多様さは世界の複雑さを物語り、現代が個人個人の多様な欲望によって動かされていることをまざまざと見せつける。

 1984年という年号からはもちろんオーウェルの『1984年』を連想しないわけにはいかないのだけど、本作でビッグブラザーにあたるのは石油投資会社の社長マックス・ロード(ペドロ・パスカル)だ。彼は確かに絶大な権力を手に入れるのだけど、しかし原典のBBのように曖昧模糊とした存在ではない。彼は全世界の前にテレビ網を通じて姿を表し、「人々の願いを叶える」と告げる。テレビが一種のコミュニケーションツールとしても使われているのも面白いが、ロードがヴィランであるにもかかわらず、彼を倒しても問題は解決しないというのがこの映画のポイントだ。ダイアナが戦うのは全世界の市民の欲望であり、彼女自身の願いだ。それゆえにこの戦いは厳しいし、それゆえに彼女が自分の願いを捨て去る場面、そして全世界の人々が己の欲望に向き合う場面の美しさが印象に残る。

 それにしてもひどかったのがバーバラ(クリスティン・ウィグ)の扱い!いかにもダサいオタク女子だった彼女は「石」の力によってダイアナのような美しさとパワーを手に入れるのだけど、生まれ持ったときから美しいダイアナに「その力を捨てなさい」とか言われても納得できないのは、同じようにパッとしない人生を送っている自分からするとよく分かる。まあこのあたりはさんざん指摘されてるからどうでもいいんだけど、それにしたってあの『キャッツ』みたいな姿はひどいよ!これがほんとの「キャットファイト」や!ダイアナにボコボコにされるし、かわいそうすぎる…。

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