今月のおすすめ

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 TVシリーズも異常なクオリティだったけど、映画版も素晴らしい作画の数々で眼福。前半は若干テンポが悪いと感じるのだけど、後半に行くに従って加速していく物語と早るヴァイオレットの心情が重なり、素晴らしい相乗効果をもたらしている。ラストはやっぱり走るんだけど、「走るんやろなあ…」と思って観ていても盛り上がるのはさすが。

 ストーリーとしてはまあ予想通り…かと思いきやすごい隠し玉が用意されていて、ヴァイオレットたちが全く登場しないもう一つのパートが並行して語られるのだけど、むしろその部分のおかげで物語全体の強度は増している。入院している少年ユリスの話のように一見すると本筋に関係ない部分が最初のうちは訝しく感じるのだけど、むしろそれがメインのテーマに直結していて、このあたりの脚本の巧みさには驚かされた。

 詳しくは長文レビューの方に書いたけど、ヴァイオレットとギルベルトの物語とは別のレイヤーで語られるもう一つの物語からは、やはり事件で亡くなられた人々のことを連想せずにはいられない。事件はまだ終わってはいないのだけれど、この映画は一つの区切りとなるだろう。ありがとう京アニ。

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観た映画一覧(時系列順)

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 大阪で小さなテーラーを営む曽根(星野源)は、ある日祖父の遺品の中から謎めいたカセットテープを見つける。そこに吹き込まれた子供の声はまさしく自分のものだったが、それが30年前に未解決に終わった「ギンガ萬堂事件」で脅迫に使われた子供の声であることに気づく。全く自覚のないまま犯罪に関わっていたことに戦慄しつつも、曽根は事件の真相を知るために奔走する。

 142分という上映時間はいかにも長いのだけど、しかしそれに見合う濃厚な物語だ。原作の塩田武士が「グリコ森永事件」を史実通りに再現したと語っている通り、本筋としての部分は「グリコ森永事件」と同じ様相で進んでいく。しかし、物語が焦点を当てるのは事件の表舞台から零れ落ちた3人の子どもたちだ。当事者の一人である曽根は、同じく事件を追う新聞記者・阿久津(小栗旬)と偶然出会い、共に事件の真相に迫っていく。阿久津が上司(古舘寛治)にこぼす言葉が印象的だ。「とっくに時効になってて、人も死んでない」と彼は言うのだが、いざ真相に近づいていくと事件は全く異なる様相を見せ始める…。このあたりのどこに行き着くか全くわからない展開は実に素晴らしく、142分という長さがあっというまに過ぎ去ってしまうのは見事だった。

 二人の全く境遇の主人公、曽根と阿久津がつかの間のバディのように細い糸を手繰っていく中盤の展開も面白く、二人の演技も見事なのだけど、しかしこの映画のベストアクターはやはり第三の主人公ともいえる宇野祥平!『超暴力人間』とか『オカルト』なんかの強烈なキャラクターが印象的だったから、減量していかにも死にそうな本作の宇野はベクトルを180度反転させて一皮むけたという感じがする。最初に登場した場面での震える電話の芝居も素晴らしいし、いかにも高そうなホテルのラウンジっぽいロケーションで、ピシッとしたスーツを着た曽根との対照的な佇まいもまた印象に残る。

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[cf_cinema format=3 no=3 post_id=10791 text=”

 1962年、ソ連南部にある小さな町ノボチェルカッスクでは物資不足と価格の上昇に対する市民たちの不満が高まっていた。役場に勤める共産党員のリューダ(ユリア・ヴィソツカヤ)はストの対応に追われるが、そんな中市民の怒りが爆発し、デモは暴動へと発展してしまう。ストに共感していた娘のスヴェッカ(ユリア・ブロワ)が巻き込まれことを知ったリューダは娘を探して町をさまよう。

 モノクロームの美しい映画。あらゆる構図が美しく、後半から劇的になっていく物語を除いても、この映像だけでも実に見応えがある。流血沙汰が後半の見どころ、と言っていいのか微妙なのだけども、とにかくこの惨事をモノクロームで切り取ることで、それまでの平凡な日常との地続き感、フラットな描き方をしているのは監督の意図しているところなのだろうか。面白いのは次第に高揚していくスト側の市民たちと対象的に、役所の面々はのんびりと構えているあたりで、群衆が役所を取り巻けば「じゃあ避難しますか」みたいなノリで近所の公園でオロオロしたりしてるんですよね。主人公がのんびり犬の親子などを眺めていたりする場面が印象的。史実を描いておきながら、こういう描写でいいのか、とも思ったりもするのだけど、実際に当時もこんな感じだったのではないか、と思えてしまうのがどこかソ連らしいと言えるかもしれない。

 それにしても素晴らしいのは主人公リューダ役のユリア・ヴィソツカヤ。共産党員として特権を持ち、物価上昇なぞ素知らぬ顔という彼女が暴動に巻き込まれていく中盤からの演技がとりわけ素晴らしい。共産党員ではなく、一人の母として、いなくなってしまった娘を探し求める彼女見せる姿、特に物語の最後に訪れる慟哭の場面は非常に印象的だ。とはいえドラマチックではない場面も味わい深いのがこの映画で、大祖国戦争を戦い抜き、ソ連建国に邁進したものの、今のフルシチョフ政権に不満を持っている父(セルゲイ・エルリッシュ)と酒を酌み交わす場面などは面白い場面だった。ちなみにソ連(ロシア)といえばウォトカだと思うのだけど、この場面は物資不足のためウォトカが無く、リューダが闇で入手したリキュールを酌み交わしているのも時代を感じさせてくれて面白いポイントだったりする。

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[cf_cinema format=3 no=4 post_id=10794 text=”

 ロンドンで暮らすルーマニア移民の一家。一家の生活を支える男(アレック・セカレアヌ)はピザのデリバリーで生活費を稼いでいる。ある日、彼のバイクが何者かに盗まれてしまう。男はバイクを取り返すためにロンドンの街を彷徨う。

 いかにも東京国際映画祭のワールドフォーカスらしい作品。プロットだけだと上に書いたように配送用のバイクが一台盗まれてしまうだけなのだけど、その裏側にある豊かな物語性を繊細な演出によって描き出している。物語の中心となるのは何の変哲もない原付きなのだけど、主人公の男はこのバイクで娘を学校に送り、妻を職場に送り、そして夜は一晩中ピザの配送に奔走する。この単純な移動の場面がまず面白い。舞台となるのはロンドンなのだけど、ロンドンの中でも明らかに治安が悪そうな足立区を煮しめたような地域で、ごちゃごちゃした街の中を小さなバイクが走っていく様が美しく、印象的だ。一家はルーマニアからの移民で、主人公の男はピザ屋のバックヤードでも同僚たちとほとんど喋らないため疎まれているのだけど、それは彼が英語をほとんど話せないためなのだった。このあたりの移民ものとしての描き方、生きづらさの表現も素晴らしかった。

 かくして、男は一台しかないバイクを何者かに盗まれ、ロンドンの街を奔走することとなる。彼自身が住んでいるにもかかわらず、上述のように言葉に不自由しているため、どうしようもない閉塞感が男の周りを覆っている。面白いのは、ここでアンモラルな選択肢が生まれているところで、結末はささやかながらも衝撃的だ。巨大な都市に暮らす人間の等価交換性が顕になるこの結末によって、物語はミクロからマクロへと収束し、移民の男は主人公から群衆の一人、大勢いる配達人の一人へと埋没して幕を閉じる。地味なのだけど、このオチがどうにも印象に残る作品。これも日本公開して欲しい。

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[cf_cinema format=3 no=5 post_id=10797 text=”

 知られざる北朝鮮の政治犯強制収容所を生きる家族の物語。父が政治犯として逮捕されたヨハンは幼い妹と母とともに突如として平穏な生活を奪われ、政治犯の強制収容所で過酷な生活を送ることとなる。やがて成長した彼のもとに脱出のチャンスが訪れるが…。

 いやあ、これも凄まじい話だった…。1995年の平壌から物語はスタートするのだけど、街は綺麗だし、車も走ってるし「お、意外とまともな暮らししとるやん」と思っていたら開始5分で文字通り着の身着のまま強制収容所生活がスタートするという…。この強制収容所がまたありえないくらいの劣悪な環境で、フィクションの中でしか見たことがないようなものががバンバン出てくる。何の煮込みかわからないドロドロのペーストとか。収監された人々は老若男女関係なく強制労働でどんどん死んでいく…。これまで弁護士やってたようなインテリでも容赦なく肉体労働させられたりしていて、もうこの時点でかなりしんどいのだけど、女性は妊娠が発覚したら即銃殺される上に看守たちの間では性的暴行が横行しているというこの世の地獄。この作品、かなり荒い感じのゴツゴツしたテクスチャのCGアニメなのだけど、これくらいのデフォルメは丁度いいと感じた。実写に近いアニメーションは正視するのが辛いし、ディズニータッチは空気が違う。

 印象に残ったのが、こんな地獄のような環境の中で人々が垣間見せる人間的な営みの数々。ヨハンの妹のユリは粗末な小屋の壁に花を塗り込めて彩り、ある事件のあと人々に寄り添うようになったヨハンは妹とともに葬儀を執り行うボランティアを始める。彼はまた、労働作業中にみんなで歌を歌うことにより作業効率を上げるという申請を出して採用されるのだけど、この場面は辛い絵面が多い本作の中で唯一と言ってもいいコミカルなシーンなのだけど、歌詞が歌詞なだけに、「社会主義ミュージカル」のようになってしまっているのがめちゃくちゃ面白かったりする。

 ところで、今回の映画祭は例年のようなQ&Aセッションがほとんどなかったのだけど、本作は日本人監督の作品ということもあって、監督によるQ&Aセッションがあった。悲惨な映画の内容とは対照的に、清水ハン栄治監督はファンキーな性格で、ジョークを交えてQ&Aに答えていた。印象的だったのが、監督が仰っていた、「自分にも何が本当に正解なのかわからない」という言葉。現在進行系でかつ隣国の問題であるだけに、観終わった後、「自分も何か行動しなければいけない」という焦燥感に駆られたのだけど、しかし個人にできることはそれほどないのだという現実もあり…。しかしこの監督の言葉によって、「とにかくそういう現実があるのだ」という認識を持つことが大事なのだと感じさせられた。来年3月に日本公開も決まっているし、みんな観て欲しい。

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 SNSに私生活をさらけ出すエクササイズのカリスマ・シルヴィア(マグダレナ・コレシニク)。ネット上の虚像と現実の自分との乖離に悩む彼女は次第に周囲との隔絶を感じ、孤独を深めていく。

 このテーマだとコメディっぽく撮ったほうが面白くなりそうだし、実際、実家に帰った時のシーンなんかは完全に浮いてる人なのだけど、むしろそのあたりからガンガン孤独感が伝わってくる。印象に残る場面が多いんだけど、何より主人公シルヴィアを演じたマグダレナ・コレシニクの演技が素晴らしい。基本的に最初から最後まで踊りっぱなしだし、最後のインタビューの表情から伺えるSNSと現実の二律背反の中から生まれる際どいような感情の表現はこの映画の見どころだと思う。ボコボコにされたストーカーの男性を病院まで連れて行く場面の緊張感、シルヴィアの世界が変化していくあたりの表現も非常に良かった。

 ちなみにこの映画で一番怖かったシーンはママの誕生日プレゼントに大型テレビをプレゼントするシーンで、めっちゃ高いヒール履いてるのに車からクソデカテレビを引っ張り出して家まで持ってこうとするのね。色んな意味で怖すぎる…。そもそもママの家狭いんやからそんなんいらんやろっていうのも観ていて辛かったポイント。

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 愛されずに育った兄が誤って弟を撃ち殺してしまうというあらすじだけでもしんどいものがあるのだけど、さすがに会社帰りに観るようなものではなかった…。しかしそれゆえに強く印象に残る映画でもある。近いテイストの映画を挙げると『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督、2015年)あたりか。まああれほどしんどくはないけど。

 とにかく明るいところがほとんどない。一家の暮らすトルコの山中は鬱蒼とした深い森が支配し、ファーストカットから彼らが厳しい自然とともに生きていることが伺える。空は常に曇っているし、序盤の唯一の楽しげなカットであるテストのご褒美であるドローンで遊ぶ兄弟たちの場面も不穏な空気で満ちている。実際にそれは悲劇の前触れであるのだが。「兄が弟を殺してしまう」という大雑把なあらすじだけは知っているので、その瞬間が今か今かと待っているのだけど、しかしそこには開放感がない。

 この手のストーリーだと、大抵の場合「家族の再生」がテーマとして描かれることが多いと思うのだけど、この映画ではしかしその方向には向かわずただただ悲劇が悲劇として描かれているのが印象的だった。兄のアジズ(ハカン・アルスラン)は一度家から追い出され、親戚の家に預けられるのだが、深刻な心的障害によって結局は家に戻ってくる。顔を合わせられない厳格な父は家族から逃げだす。ちなみに、殺してしまった直後の家族のあれこれはばっさりと省略されていて、このあたりのコントロールも上手い。

 事件後に家族が初めて食卓を囲む場面がこの映画のクライマックスだ。家族の食事というイメージからは程遠い空気が漂うこのシーンは、この家族がもはや再生しようもない状況に陥ってしまっていることを如実に表している。結局の所、出来の良い弟が不出来な弟に殺されてしまったという事実は変えられないし、その亀裂は埋まりようもないのだろう。どんよりとするが素晴らしい作品。

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 茫漠としたイランの荒野に佇む煉瓦工場。長年続いてきたこの工場にもある日最後の日が訪れる。出稼ぎ労働者たちは唯々諾々と街へと帰っていくが、この工場で生まれ、煉瓦作りしか知らないロトフォラー(アリ・バゲリ)には行き場所が無く途方に暮れる。一つの世界の終わりを描いた小さな叙事詩。

 カメラワークがとにかくいい。第30回東京国際映画祭でグランプリを獲ったセミフ・カプランオール監督の『グレイン』(2017年)もそうだったけど、中東のだだっ広い荒野をモノクロの長回しで撮るととても映えることが再確認できた。本作でも、工場から街へと帰っていく人々の姿を豆粒のように小さくなるまで延々と撮り続けるカットが非常に印象的だ。煉瓦工場のやたらと長い煙突がここでいい味を出している。また、カメラが移動したり室内で回転するようなカットがいくつかあるのだけど、面白いのはカメラを遮るような障害物であったり単なる壁であってもひたすらに等速で映し続けるというカットがいくつかあって、これもまた印象的だった。そういった時、画面にはただの壁が延々と映し出されるのだが、音響がここでは主役になっている。砂漠を吹き抜ける強烈な風の音が耳に残る。

 物語は工場の閉鎖を告げる工場長のカットを、視点を変えつつ何回も流しだすという変則的な構成なのだけど、ひたすら淡々と工場最後の一日を映し出していく。閉鎖が告げられる前の煉瓦作りの光景、未払いの給料の計算、一人づつ工場長と面談していく労働者たち。それだけに、この淡々とした物語からは想像もできないような結末は衝撃的だった。もちろん、そこに至るまでに男の中では様々な火種が燻っていることは見て取れるのだけど、あの行動を起こすまでの絶望感というものはおそらく我々には想像もできないのだろうと思う。最後の最後までそれまでの調子と全く変わらず淡々と煉瓦を積み上げ続けるロトフォラーの姿には憐れみというよりはどこか畏怖のようなものが感じられる。これまでに観たあらゆる映画の中である意味最高のエンドロールへの導入だった。

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 芸術のために声を失った女性ダンサー(ハ・ヨンミ)と引退した老パントマイマー(あらい汎)の緩やかな交流。再生と死の物語。

 なんとなく中国の作品だと思って観に行ったら普通に東京藝術大学のロゴが出てきて驚いてしまった。これが修了制作とは。かなり観念的な話で、話の筋がわかりづらくもあるのだけど、それでもこれを修了作品として作ってしまうのはやはりすごい。監督のリャオ・チエカイはシンガポールの人だとのことで、その視点から見た日本観のようなものも垣間見せてそのあたりも面白かった。

 物語は過去と現在が入り混じり、カットごとに時代が飛ぶかと思えば、一つの画面の中に過去の出来事が入り込んだりするという、話の大筋を追うのがかなり大変な作品である。しかしむしろそれは劇中で何度も挟まれる白昼夢のような非現実感を伴っていて、あたかも舞台劇を観ているかのような心地になったりもして、個人的には大変好みな作風だった。タルコフスキーっぽさがあるといえばいいのか、眠くなってしまうのは仕方がない。

 ぶっちゃけて言うと「アート寄りのよくわからない映画」ということになってしまうのかもしれないが、それでも個々の場面の美しさは印象に残る。 主人公が老パントマイマーに会うためにバスでやってくる場面の行き違い(というよりも時間の交差)を一カットで撮る場面や、終盤の雨の中で踊る主人公のカット、即身仏になるために洞窟にさまよい込んでいく老パントマイマーのシーンなどは特に印象的だった。これも東京国際映画祭らしい素晴らしい作品。一回ではとても咀嚼できないので、ユーロスペースあたりでやってくれたらまた観たい。

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 息子を山で見失いそのまま隠遁してしまった男、近所の男に暴行され心を閉ざした女、そしてその女が産んだ私生児の少女。様々な人々の思惑と欲望が絡み合い、大きな運命が動き出す。

 いやー、これもヘビーな作品だった…。朝っぱらから観るもんじゃあないね。嫌な話といってしまえば簡単なのだけど、些細な悪意(あるいは善意)が悲劇を生み出すというのが一番キツイ。今回の映画祭で言うと『赦し』みたいな。殺人鬼がひたすら殺し回るのを観てるほうが気楽だ。まあぶっちゃけて言うと「135元ケチったら大変なことになりました」みたいな話で、軽いノリで言ってますが、本当に大変なことになってそのまま終わるので、観終わった後の気分は最悪。それだけ彼らの人生に惹き込まれていったということでもあるので、映画としては実に良く出来てる。「悪意のない悲劇のピタゴラスイッチ」みたいな映画。

 事件が始まるまでの伏線の張り方が絶妙で、エンジンがかかるまではよくわからない話に見えるのだけど、一旦ことが起こった後は坂道を転げおこるように伏線が回収されていくのが気持ちいい。まあオチは嫌な気分になるんだけど。原題の「無生」は仏教用語で、「因果/転生/無常」といった意味を持つらしいのだけど、なるほどこの概念は本作の脚本にピッタリと当てはまる。撮影も見事で、特にアバンタイトルの山の場面での闇と炎の表現はとても素晴らしい。これが石梦(シー・モン)監督の初長編というのだから、その恐ろしい完成度に舌を巻く…。

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 新生児のオマールの手術のためパレスチナ居住区からイスラエルへと向かった父・サリー(カイス・ナーシェフ)。しかし手術の甲斐なくオマールは死んでしまう。サリーは村へと帰ろうとするが折り悪くチェックポイントが閉鎖されてしまい、戻ることができなくなってしまう。息子の亡骸をバッグに入れてイスラエルを彷徨ううちに、男は一人のイスラエル女性と知り合う。

 東京国際映画祭でのイスラエルとパレスチナの関係性を描いた作品といえば、一昨年(第31回)の傑作コメディ『テルアビブ・オン・ファイア』( サメフ・ゾアビ監督、2018年)を思い出すのだけど、本作は最初っから赤ん坊が死んでいるので、もう雰囲気は最悪。おまけに中東の熱気でオマールは次第に腐り始める…。息子の遺骸は実際に画面に映されることはないのだが、周囲の人々の「なんか臭うわね」と言った何気ない発言であったり、サリーの抱えるバッグから染み出す体液によって、映画の中に恐ろしいまでの緊張感を生み出している。

 こんな状況にあるサリーが出会うのがイスラエル女性のミリ(シャニー・ヴェルシク)だ。イスラエル人とはいうものの、彼女もまた困難を抱えていて。悲しみに沈む男と不安定な女という、どこか共鳴するようなものを抱えた二人は共にサリーの村を目指して行くこととなる。だからこの映画はある種のロードムービーなのだけれど、目指すべき場所があるにもかかわらず、なかなかそこにたどり着けないというのは、イスラエルとパレスチナという二つの地域を象徴しているのようにも感じる。それにしても「子はかすがい」とは言うものの、異なる場所に立つ二人をつなげるものが死んだ赤ん坊というのはなんともはや。後半のホテルでのささやかな安らぎの場面などは二人の関係の変化を感じさせてくれて印象的なのだけど、より心に残ったのは突き放すような別れの場面で、二人の住まう地の一筋縄ではいかない複雑さが垣間見える。

 しかし、立て続けに赤ん坊が死んでしまう映画を選んでしまうとは…。まあ映画祭ってこういうことありますよね。

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 郊外の低所得者層住宅地(パッと見、そうは見えないが…)に住む3人の男女。ネットショッピングで借金漬けになった男、ネットにハメ撮り動画をアップすると脅されている女、Uberっぽいタクシーサービスで常に満足度星1つの女ドライバー…。ネットに翻弄され怒れる人々は叫ぶ。「Googleをぶっつぶせ!」

 今回の映画祭唯一のコメディ枠。みんな憂鬱な作品観なくないからなのか、毎回コメディ作品からどんどん売れ切れていってしまうので、本作が取れて本当に良かった…。ベルリン国際映画祭でコメディでありながら銀熊賞を取ったというのは伊達ではなく、めちゃくちゃ面白い上に現代的なテーマも孕んでいて見ごたえがすごい。Airbnb的なサービスで稼ぐために家財一式を外に出してる出だしから笑えるのだけど、キャッシングカードが蛇腹になってダラララ~と出てくるくだりやら原子力発電所に勤めていたけど動画配信サービスのドラマ中毒になってUberタクシーをやらざるを得なかったエピソードやら、まあとにかく笑かしてくる。明らかなテレホン詐欺で自動応答の想像上の美少女に愛を語る男は滑稽なのだけど、どこか愛おしく思えてくるから不思議だ。彼らはネット社会的には確かに愚かなのだけど、自分たちがそちら側にいてもおかしくないという親近感がある。

 全ての元凶が世界を支配するネット企業にあることに気づいた彼らは、伝説のハッカー(!)の助言を得て、Googleのデータセンターに乗り込むが、当然のように門前払いされてしまう。このへんの闇雲な行動力もバカバカしくて面白く、ドン・キホーテ的だ。結局の所、あるデータが一箇所にあるわけではなく、世界中に分散されていることを知った彼らはとぼとぼと日常へと帰っていく。現代はGoogle(あるいはAppleやAmazon)といった特定の「ビッグ・ブラザー」ではなく、世界中に偏在する「リトル・ピープル」の時代だということを示す結末(例えば主人公の一人であるマリー(ブランシュ・ギャルダン)がまたもや動画を撮られてしまう場面など)は極めて現代的な支配のテーマと直接的に接続されていく。このあたりのテーマはディヴ・エガーズが『ザ・サークル』の中で描いていたものを連想させる。表層的にはコメディなのだが、しかしテーマ的には哲学の領域に踏み込んでいて、銀熊賞というのも納得の作品だ。

 ところで、酒で失敗したマリーが翌日呼び出されて前夜の凶行を列挙される時にやってた「唸り声をあげて膝をパーンッと叩く」やつ、めっちゃおもしろかったので積極的にやっていきたい。

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 ブリュッセルに住む老婦人マリア(ペトラ・マルティネス)。ある日些細な体調不良から入院することになるが、同室のヴェロニカ(アンナ・カスティーリョ)はマリアと対照的な奔放な若い女性で、マリアは彼女のペースに振り回されるものの、同じスペインからの移民ということがわかり、打ち解ける。しかし、様態が急変したヴェロニカはあっけなく死んでしまう。身寄りがない彼女の遺灰を家族のもとに届けるため、マリアはスペインへと渡るが、そこには彼女が思いもしなかった展開が待っていた。

 東京国際映画祭最後の作品。最初に観た『私は決して泣かない』も移民の遺灰を運ぶ話だったのだけど、最後に観た本作も移民の遺灰を元の地に戻す作品だったことに奇妙な因縁を感じる。この映画のいいところはとにかく主役のおばあちゃんがパワフルで前向きなところ。ベルギーの家族のもとにいる時はマジ陰キャで目が死んでるんだけど、スペインであれやこれややっているうちにどんどん元気になっていく。はじめの目的があれよあれよという間によくわからない方向に進んでいくのだけど、そこもまたヨシ!行き着いた片田舎の食堂でオムレツ作って店主と酒を酌み交わすシーンなんかもう最高!バイクにも乗るし、海でも泳ぐ。で、またベルギーに帰ってきたら目が死んでるんだけど。原題は”That Was Life”で、ざっくりいうと「あれが人生やったわ!」みたいな感じかな。なるほど、内容に合ってる。

 ところで、初期のミッションはヴェロニカの遺灰を遺族に届ける、というものだったのだけど、中盤でマリアが遺灰をとんでもないところに持っていくのでちょっと驚くなど。なるほど、あれは柘榴の木だったか…。劇中でマリアも柘榴を頬張ったりもしていて、宗教色の強いスペインのことだから、もちろんあのマリアの行為は復活、とまではいかないまでもある種の宗教的な意識からの行動だと考えると合点がいく。

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 「神話と怪獣研究の第一人者」を自称するライオネル卿(ヒュー・ジャックマン)は奇妙な手紙に導かれてアメリカ西部へと赴く。そこに待っていたのは手紙の主である毛むくじゃらの生き物(ザック・ガリフィアナキス)だった。流暢な英語を話すが、孤独なミッシング・リンクはライオネルにヒマラヤに仲間を探しに行ってほしいと頼む。ロンドンの探検家クラブに入会するための証拠を求めていたライオネルは、Mr.リンクと名付けたこの生き物とともにヒマラヤへと向かうが、彼のもとには探検家クラブのドン、ダンスビー卿(スティーブン・フライ)の放った刺客が迫っていた…。

 途中の旅が若干省略されてしまっていて退屈な場面もあるものの(まあロンドンからアメリカ西部、からのヒマラヤだからしかたない)、とにかく主役の3人と殺し屋のステンク(ティモシー・オリファント)たちのキャラクターが実に楽しい。会って早々、英語を捲し立てるMr.リンク、イギリス人らしい(?)尊大な性格のライオネル卿、そして3人目の主人公である快活な未亡人・アデリーナ(ゾーイ・サルダナ)。序盤の酒場での素晴らしい乱闘シーンからノンストップで冒険が続き、ヒマラヤの奥地というとんでもないところまであっという間に連れて行ってくれる、『80日間世界一周』もかくやのスピード感。最後は夢か現かわからない不思議な空間にたどり着く。数々のアクションを生み出すしつこすぎる殺し屋・ステンクも良いキャラクターだし(最後はちょっとかわいそう)、主役3人の「孤独」に焦点を当てたメインストーリーも見事だ。

 スタジオライカなので当然のようにストップモーションのアニメーションが凄まじいレベルなわけだけど、あまりにも滑らかすぎてCGと間違える人もいるのではないか、と感じてしまった。そういう世界でストップモーションをやる意義とはなんなのだろう。とは言うものの、まだここには手触りのようなものが残っていて、例えばそれはキャラクターたちの纏う衣服であったり、額に浮かぶ汗であったり、そしてまたMr.リンクの残すビッグフットの足跡だったりする。特に良かったのは殺し屋であるステンクのちょっとゴワッとしたいかにも安そうな服の質感。しかしCGが無限に進化していくとしたら、こういった「モノのミニチュア的質感」も模倣できてしまうだろうし、そういったときに直面する「莫大な手間をかけてストップモーション作る意義とは?」という疑問に対して彼らはどう立ち向かっていくのだろうか、ということを考えざるを得なかったのは事実だ。

 ところで、この技術の過渡期という現実の問題とリンクしているように思えたのが、劇中で展開される進歩史観的な世界だ。本作の悪役であるダンスビー卿は進化論を認めず、リンクの実在を「自分の存在を脅かすもの」として排除しようとする。「今は闇の時代だ。婦人参政権に進化論。我々の居場所は無くなってしまう」と彼は言う。彼の牛耳るロンドンの探検家クラブはいかにも保守的で、ビジュアルとしても色褪せた小さな世界を作っている。彼のクラブに入るために奮闘していたライオネル卿は最後には彼を見限ることとなる。「私は進化した」とライオネルは言う。そしてまた「世界が私を作る」とも。かつてイギリスは世界を形作っていた。その地に生まれた紳士がこんな言葉を紡ぐところに、この物語の真骨頂があると言えよう。ストップモーションというある意味で最も古いアニメーションの技法を操るスタジオライカ。変化していく世界を受けて、次回はどんな世界を見せてくれるのだろうか。

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 第40回ゴールデンラズベリー賞で「人命と公共財を軽視する無謀さに対する最低賞」とかいう最高にイケてる賞を受賞してるんだけど、これがまあめちゃくちゃ面白い。やっぱりゴールデンラズベリー賞は信用できるな!

 メル・ギブソン演ずる人権とかあまり気にしない系の古いタイプの警官ブレットと相棒のトニー(ヴィンス・ヴォーン)が例によって強引な捜査で停職処分になり待遇の悪さにキレて麻薬密売人から金を強奪する計画を立てる、という筋書き。まあそう上手くは行かないんですが…。もう一人の視点人物としてチンピラ黒人のビスケット(マイケル・ジェイ・ホワイト)がいるんですが、結局こっちのほうが主人公っぽかったよねえ。みんなキャラが立ってる。

 「人命と公共財を軽視する無謀さに対する最低賞」 受賞というのは伊達ではなくて、本当にガンガン人が死んでいくというのも面白ポイント。何の意味もなくスプラッタ映画バリに殺されていくのでむしろ爽快。途中に挟まれる産休から復帰した当日に銀行強盗がやってきて悲惨なことになる銀行員ケリー(ジェニファー・カーペンター)のエピソードとか、無駄に長く描写しててめちゃくちゃ嫌な話で夢に出るわあんなん。というかまあ大体嫌な話が多くて嫌だなあ、この映画…。みんな観て嫌な気分になってほしい。銃撃戦は爽快感あるしさ…。

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 お父さん役のニコラス・ケイジがとにかくノリノリのSFホラー映画。まあニコラス・ケイジがノリノリじゃなかったことって思い浮かばないけども。

 舞台はアーカムの山奥にある一軒家。ネイサン(ニコラス・ケイジ)と妻のテレサ(ジョエリー・リチャードソン)の夫婦と三人の子供が暮らしている。ある日、庭に隕石が落下し、一家の周囲が少しずつ変異し始める…。ラヴクラフト未履修なんで原作との比較はできないんですけど、ネイサンが何故かアルパカを飼ってたりするの、絶対原作準拠じゃないですよね…。いや面白いからいいんですけど。でニコラス・ケイジが「アルパカには未来がある」とか言うわけ。「来年にはアルパカの肉が取れる」とか。いやアルパカは食いもんじゃねーだろっていう。段々と異星の環境に侵食されていく中で家族みんなおかしくなっていくんだけど、その中でもニコラス・ケイジの狂いっぷりが素晴らしくて、ベストシーンは庭で取れたトマト(汚染されてる)が不味すぎて「なんで本のとおりに作ったのにクソまずいんだ!!」とか発狂するとこ。ゴミ箱にトマトを「スラムダンク!」とか言いながら投げ込むところとかクッソ笑うわ。ノリが良すぎる。

 異星の植物や虫がじわじわと家の周りに増えていくんだけど、明らかに極彩色が多くて、気分はなんだか『No Man’s Sky』(ゲームの)。後半に出てくるクリーチャーの造形の気持ち悪いさとか見どころたっぷりで、特にお母さんの第二形態はかなり良かった。怖すぎて夢に出たわ。まあでも結局「色」ってなんなん?ってところはよくわからなかったな。まあそういう映画でもないんだろうけど。アルパカのクリーチャーとかなかなか観れないし、一見の価値あります!

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