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『コーポ・ア・コーポ』は役者陣(特に猫)の再現度がすごい。
役者陣の再現度高い予告編からかなり期待値が高かったのだけど、蓋を開けてみればそれなりに期待通り。主役の4人がとにかく完成度高い。特にユリ役の馬場ふみかの再現度がすごい。あのダラーっとした感じはかなり点数高いです。惜しむらくは目が死んでなかったことかな…。撮影とか照明とか、全体的に雰囲気も明るいんですよね…。もっとジメジメしていてくれればなお良かったんだけど…。
キャスト的には中条さん(東出昌大)もイメージ通りで怖いくらいなんだけど、一番イメージぴったりだったのは猫。ユリちゃんが本当に常に抱いてるのも含めて。かなり最高。
物語的にはいきなりユリの弟が登場するシーンから始まるのでかなり意表を突かれました。あのエピソードやるなら玄関口で中華出前食べるシーンやってほしかったなあ。原作は群像劇でかなり込み入りつつ、相互の関連性が薄い、よく言えばリアルな、悪く言えば散漫な物語なのですが、映画は4人の主人公の特徴的なエピソードをかなり大胆にピックしている印象。これは脚本難しかっただろうなあ、とは思うのものの、一本の映画としては何か軸になるものが欲しかったところですね。
とはいえ、このビジュアルだけでもすでに勝っているといえばそうですね。真の主役は「コーポ」だと思っているのですが、この佇まいが実にいいのです。これと猫だけで元は取れてる。
見たことのなかった「戦時」:『窓ぎわのトットちゃん』
正直全く興味が無かったのだけど、タイムラインでの評判があまりにも良かったので観てみたのだけど、いやー、これは年間ベスト級のすごいやつがいきなり飛んできた。比するならやはり片渕須直監督の『この世界の片隅に』。
語るべきポイントはいくつもあるのだけど、一つには主な舞台となるトモエ学園とそこの校長である小林先生の魅力である。リトミック教育を中心とした学校で、トットちゃんが転校してきた初日から各々が好きな科目を始めるというあたりで、「ここがどのような場所か」ということが端的に示されている。そしてここを統べる校長の小林先生が実にいい先生。ある程度美化されてはいるのだろうけど、子供の目線で、子供がどう考えるかを第一に考えていて、「本当にこんな先生がいたのか?」と思ってしまうくらいの人格者。個人的にグッときたのは女性教員を厳しく叱責している場面。このシーンが挿入されることでグッと人間的な深みが増している気がする。そして物語のエピローグの空襲で学園が燃え落ちてしまうシーンも素晴らしい。爛々と目を輝かせながら「次はどんな学校をつくろうか」と呟くシーンはかなり主人公感がある。
そして戦時中にまたがる話なので深まっていく戦争の描写も独特で見応えがある。黒柳家は基本的に上流階級なので、その子女から見た戦争というのもかなり面白いのだけど、いわゆる戦争映画的な直接の空襲のようなものを描かずに、戦争というものの本質を描いている点がいい。このあたりは『この世界の片隅に』でもある程度描かれていたと思うのだけど、トットちゃんの一家は最後まで空襲の被害にあうことはない。しかし、たとえば映画の冒頭で特徴的な声でトットちゃんと会話を交わす自由が丘駅の男性駅員が何の説明もなく女性駅員に代わっていたり、お弁当の中身がじわじわと質素なものになっていったりといった極めて微妙な、そして決定的かつ不可逆的な変化によって、戦場でも被災地でもない「日常の場における戦争」がしっかりと描かれている。
今年の一本として必見。
めちゃくちゃ疲れるけど必見:『王国(あるいはその家について)』
『螺旋銀河』の草野なつか監督による長編第2作。佳作だなあとは思ったものの、これ作られたのは2018年なのね。今年初劇場公開だったら文句なしにベスト10に入れたいと思った傑作。まあ傑作というのも違っていて、「衝撃作」という二つ名はまさにこの作品のためにあるのだと思った。
ストーリーはあってないようなもの、というより、反復される稽古のシークエンスによって、主題となる事件そのものはリアリティを剥ぎ取られていく。と同時に、反復され語り直されることで、語られる物語の強度は増していく。
冒頭の長尺のワンショット供述シーンからかなり意表をつかれてしまうのだけど、演劇(的なもの)という非再現的な芸術を、映画の中で再構成することで生まれる役者の身体の揺らぎを楽しむようになってくると次第に映画の中に入り込めるようになってくるのが面白い。…のだけど、入り込んだぞ!と思った瞬間に別の場所にワープさせられたりする。時系列もぶった斬って一見するとでたらめに繋ぎ合わせられているかのようで、その意味では『映画大好きポンポさん』を連想する「編集映画」であるとも言える。最後があのやりとりなのはやはり天才。むしろ全体を通して描きたかったのはあのシーンなのでは?という気もする。
「特別企画展 日本画の棲み家」@泉屋博古館東京
泉屋博古館分館に滑り込みで「特別企画展 日本画の棲み家」。やはりいい作品が揃っていて眼福。
タイトル通り、日本画がどこに飾られていたか?というテーマで、具体的には日本画が「美術」となる過程で床の間から展覧会会場へと「棲み家」が移り、それに従って表現が変化していった、といった論旨。面白いテーマなのだけど、展示からはあまり伝わってこなかった気がする。これは作品が良すぎて展覧会テーマにあまり意識がいかなかったからという気がするので、主に自分のせいですね…。
特に良かった作品は木島櫻谷の諸作品。そんなにレアリティはないけど、《雪中梅花》はやはりあの空間に映えますね。ザ・床の間芸術といった趣の《秋野弧鹿》は鹿のおしりがキュートで良い。《震威八荒図衝立》の熊鷹の佇まいも美しい。鳥繋がりで言うと望月玉泉の《雪中蘆雁図》は雁の群れの一羽一羽が個性的で楽しい。
第3章の「『床の間芸術』を考える」は、現代において「床の間芸術」がどこに飾られるべきかについて考察する現代作家のセクション。ここでは菅原道朝さんの《水の三態》が良かった。自分の家でもいつか飾りたいと思う作品。個人的にプライベートな空間では(一見すると情報量が少ない)抽象的な作品が好みなので。
全体的に完成度が高く満足度が非常に高い展覧会でした。
「オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」@麻布台ヒルズギャラリー
そういえば麻布台ヒルズにもギャラリーできたんだったなー、ということで泉屋博古館分館から坂を下って麻布台へ。先週も来たばっかりだけど、やはり楽しい空間。
ギャラリースペースとしては近隣の美術館ほどのスペースはないとはいえ、美術館としての必要十分という感じ。
オラファー・エリアソンはこないだMOTに来ていた展覧会を見逃したので、なにげに初の鑑賞。エコロジー系の作家だということは知っていたのだけど、一番エコを感じたのはパブリックスペースにも展示してあった展覧会タイトルにもなっている《相互に繋がりあう瞬間が協和する周期》。空気中に排出されるはずだった亜鉛を回収して幾何学的なオブジェクトを形成する。同じような(しかし微妙に違うサイズの)立方体が有機的に、そして円環を成すように接続され、人を含めた自然の循環や自然を含めた社会全体の動きのようなものを連想した。
もう一点の目玉的な作品は真っ暗な大空間に置かれた《瞬間の家》。水とストロボを使ったインスタレーションで、一定の間隔で水の動きが暗闇に浮かび上がる。さながら稲妻のように、一瞬一瞬が全く違う姿を見せる。可視化された時間は儚いが、その瞬間は鑑者の脳裏に刻印される。
「大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ」@国立新美術館
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ | 企画展
続けて、国立新美術館の「大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ」へ。
シグネチャーにもなっているエントランスの《Gravity and Grace》からすでに圧巻。大空間に置かれた巨大な壺状のオブジェクトにはなにやら刻印が刻み込まれており、ゆっくりと動く内部の光源によって周囲の壁に複雑な影を刻んでいく。311の原発事故をモティーフにした作品とのことなのだけど、個人的にはあまりしっくりこない。オブジェクトの周囲は、低いハム音のような不気味な音で満ちていて、強烈な光とともに、巨大なもの、強力なものへの畏敬の念を想起させる。
展覧会タイトルにもなっている《Liminal Air Space—Time 真空のゆらぎ》の部屋は、偶然にも直前まで観ていたエリアソンの《瞬間の家》とほとんど同じような真っ暗な大空間で、思わぬシンクロニシティに笑ってしまった。もっともこちらは布がゆっくりと動いていくインスタレーションで、さながら海のような風情。まったりとしていて、これはこれでとてもおもしろい。
いかにもな斜線堂節が最高:『回樹』
こういう「ダークサイド藤子・F・不二雄」(そもそもF自体がダークじゃねえかみたいな話はあるとして)みたいな話を書かせると天下一品。それが斜線堂有紀。
どれも狂った話だけど、やはり冒頭に置かれた「回樹」と、巻末で対になる「回祭」のセットが最高。見えないものを見ようとする、という割と古典的な話をこういう風に料理するのか、という面白さ。ガジェットとしての「回樹」の不気味さ。色々とすごい。
映画好きは「BTTF葬送」も必読。
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