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【映画レビュー】『この世界の片隅に』:「この世界」とはどこなのか。

      2017/08/13

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あらすじ

 1944年、広島県呉市。北條家の長男・周作に見初められた18歳の浦野すずは縁もゆかりもないこの土地に嫁いでくる。食事を作り、掃除をし、服を繕い、日々の暮らしを重ねながら周囲の人々との関係を紡いでいくすずの日常。次第に戦火が激しさを増していくなか、昭和20年のその日へと近づいていく。

観たことのない「戦争映画」

 『この世界の片隅に』は「日常映画」である。「戦争の時代」を描いた日常の映画だ。

 物語は一貫して、「すず」という平凡な女性の視線を通して語られていく。だから一般的な戦争映画のように、あの戦争を大局的な視座から俯瞰しているところはほとんど無いし(それゆえに大和発見のシーンは例外さが際立つ)、南方に行った「鬼いちゃん」の直面したであろう地獄のような情景はすずには届かない。呉という、広島からほんの25キロほどのところに暮らしていながら、すずが実感をもって原爆の被害を感じ取るのはそれから随分あとのことになる。玉砕放送を聞いて憤るすずの姿は現代の我々からすると異常者にしか見えないが、それもまた大局的な視点を欠いた庶民の声の一つだったのだろう。

 しかし、そんな彼女の視界の中にも否応なく「戦争」が侵入してくる。表面的には、それはもちろん幾度となく繰り返された呉の空襲なのだけれど、主婦としてのすずの眼前には食材の欠乏や生活の苦しさといった形で現れてくる。野草を使った戦時食、特に楠公飯のエピソードや、砂糖をめぐる攻防、そして闇市での買い物といった小さくてコミカルな物語が彼らの日常を彩る。敵機が飛来し、爆弾が落ちても人の生活は続いていくのだ。

 このあたりは、片渕監督がときおり言及するコニー・ウィリスの『ブラックアウト』『オールクリア』あたりに通ずるものが感じられる(片渕監督とコニー・ウィリスについては、去年の第54回日本SF大会「米魂」にて監督を招いて行われた企画のタイトルが「ある航時史学生の記」だったりもする。【レポート】「ある航時史学生の記」(『アリーテ姫』上映・片渕須直監督講演)【第54回日本SF大会「米魂」】)。コニー・ウィリスがロンドン大空襲下の人々の生活をミクロな視点で精緻に描き出したように、片渕監督は戦争という非日常の中で確かに息づく「日常」の姿を活写する。

アリーテ姫からすずさんへ

 おそらく、時代背景やキャラクターデザインと言った観点から見れば、本作と比較されるのは片渕監督の前作にあたる『マイマイ新子と千年の魔法』だろう。しかし、ここでは監督の初監督作品である『アリーテ姫』を取り上げたい。

 『アリーテ姫』という映画を穿った見方で表すならば、「主人公がモブになる物語」だ。一国の姫に生まれ政略結婚の道具として塔に閉じ込められていたアリーテは、彼女の「呪い」を解くと称する魔法使い・ボックスによって連れ出され、彼の古城に幽閉される。ボックスは、自由を餌に彼女に3つの試練を与えるが、アリーテは知識と行動力によって難題に立ち向かっていく。ダイアナ・コールスによって書かれた原作『アリーテ姫の冒険』は現代フェミニズム童話の代表的な作品だが、片渕監督はそれを普遍的なヒューマニズムあふれる作品に作り変えた。主人公アリーテと同じように、悪役であるボックスもまた囚われ人であり、原作では死んでしまう彼にも救済が与えられる。映画のラストカットが主人公アリーテではなく、ボックスの姿で締めくくられるのは印象的な場面だ。ボックスはアリーテと対になる裏主人公とでも言うべき立ち位置にある。一方、表の主人公であるアリーテは姫であることをやめ、港町の雑踏へと消えていく。

 アリーテは姫であり、ゆえに主人公である。彼女の住まう城は物語の中心であるとともに、舞台となる国の中心でもある。アリーテに求婚するため、騎士たちが各地で手に入れた宝物を持って王に謁見する場面から物語ははじまる。「今はなき魔法使いたちの遺産を世界の片隅より見つけ出し、はるばる持ち帰るという難題、かくも多くの勇士が成し遂げようとは、陛下のお喜び、いかばかり」なんて台詞があったりするのも偶然とは思えないめぐり合わせだ。そして、物語の序盤、求婚者の騎士にアリーテは塔の外に広がる城下の街並みを示す。「たくさんの屋根の下、沢山の人達、みんな、自分の心を持っている。それがこんなにたくさん、もう圧倒されてしまいそう。そうではない?意味があるのはその心の一つ一つ」。姫としてのアリーテが世界の中心にいるのなら、『この世界の片隅に』のすずは言うなればアリーテに見られる側にいる人々の一人だ。彼女は最初から市井の人であり、どこにでもいる有象無象の一人でしかない。しかし、主人公たりえない人間であっても、居場所はある。中心ではなく周縁に。冒険ではなく日常に。物語の終わり、アリーテが魔法使いボックスにかける言葉は象徴的だ。「あなただけが特別なんじゃない。誰もが自分の人生の主人公なの」と。『この世界の片隅に』は「主人公性」を自ら放棄し「ただの人」となることを選んだアリーテの、その後の物語だ。しかし「片隅」で生きるすず(とその周りの人々)は確かに彼らの人生の主人公なのだ。『この世界の片隅に』というタイトルの奇妙な響きは、実際のところ、この物語の本質を実に的確に言い表している。そして、片渕須直という人がこの映画を監督することになったのはある意味で必然だったのだろう。

「原爆ドーム」の向こう側へ

 それにしてもこの映画の恐ろしいところは考証にかける熱量の凄まじさだ。こうの史代先生による原作からして、重箱の隅をつつくかのような時代考証の塊なのだが、映像化するにあたって片渕監督はそれに輪をかけて、執念的な描写の数々をつぎ込んでいる。空襲の日時や軍用艦の停泊記録はもちろんのこと、その日の気温によってモンシロチョウが飛んでいるか否か、果ては戦闘機の音を再現するために本物のエンジンを取り寄せるといった念のいりようだ。

 そして、今はなき広島・中島本町の商店街の佇まいやすずの暮らす呉の町並み。かつてないほどに再現された当時の世界は逆説的ながら我々の生きている現代との繋がりを強く感じさせる。この映画は、すずという一人の架空の女性の物語であり、アニメーションという手法で綴らている。にもかかわらず、どんな実写映画よりも「現実感のある」世界が作り出されている。むしろ、どうしたって「嘘くささ」が出てしまう実写よりも虚構のアニメーションであるからこそ再現できた、という言うべきだろうか。

 今では原爆の悲劇の象徴となってしまった産業奨励館、そして精緻に再現された中島本町が1945年8月6日という日の向こう側へと我々を連れて行ってくれる。あたかもタイムマシンのように。産業奨励館が「原爆ドーム」と呼ばれるようになったように、象徴的なもの、言い換えればどこかアンタッチャブルなものへと変貌してしまった「あの日」の向こう側、そこには確かに現代と同じ人々が生きていた。戦時中という日常の中で、食事をし、買い物をし、愛を交わし、笑い、悲しみ、憤り、何気ない日々を過ごしていた人々。彼らは、戦火の中で傷付き、様々なものを失いながらも生きていく。彼らの生活こそが現代とあの時代をつないでいる。

 だから、『この世界の片隅に』という映画は8月6日や8月15日で立ち止まらずに続いていく。映画はすずと周作が戦災孤児を北条家に連れて帰る場面で終わるが、彼らの生活はあの後も続いていくのだろう。そして、9・11や3・11、それから今日も世界のどこかで起きている幾多の悲劇の合間を縫って、すずさんの生きた日常は続いていく。「この世界」は続いていく。

予告編

基本情報

この世界の片隅に  In This Corner of the World130 min

監督:片渕須直

音楽:コトリンゴ

脚本:片渕須直

出演:のん/細谷佳正/尾身美詞/稲葉菜月/牛山茂/新谷真弓/小野大輔/岩井七世/潘めぐみ/小山剛志/津田真澄/京田尚子/佐々木望/塩田朋子/瀬田ひろ美/たちばなことね/世弥きくよ/澁谷天外

公式サイトhttp://konosekai.jp/

公式Twitterhttps://twitter.com/konosekai_movie

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