はじめに

 11月9日(日)に行われた「第92回アニメスタイルイベント 原口正宏アニメ講義vol.3 商業アニメを作り上げてきた4大河とその支流たち2」をまとめてみました!「データ原口」こと原口正宏さんがアニメ史の秘められた1ページを解き明かす大人気イベントです。もちろん、今回も満席でした!

 大変残念ながら、前回のvol.2には行けなかったのですが、Togetterにまとめてくださった方がいらっしゃいますので、こちらをご覧いただければと思います。→ 「原口正宏のアニメ講義 Vol.2」 vol.1もメモを取ってあるので近々まとめますね!

 また、今回のTogetterまとめはこちらー → 「 原口正宏アニメ講義vol.3」

トークの内容につきましては、その場で速記してまとめています。事実誤認、不適当な記述などございましたらご連絡ください。対応させていただきます。

データ原口先生の濃密すぎる90分講義×2!

登壇者

小黒祐一郎さん(アニメスタイル編集長、以下「」)

原口正宏さん(アニメーション研究家、通称「データ原口」、以下「」)

1.ビッグX界の新情報お披露目!

小 さて、講義の前にビッグX界1の新情報があるということですが…。

原 結果的にビッグX界の新情報になりました。渡辺泰さん 2 から『ゴム人間』というよくわからないアニメの情報が入りまして…。「明らかに日本のアニメだけど、知っているか?」ということなんですね。それが渡辺さんが懇意にしている神戸の「神戸映画資料図書館」 3 に入った、と。それで、『ビッグX』のエピソードリストを見返してみると、(未発見の)第31話に「ゴム人間の反乱」というのがあって、「コレだ!」ということですぐに送ってもらいました。
今日は許可を取りましたので、上映したいと思います。

『ビッグX』第31話「ゴム人間の反乱」上映。花丸博士とゴム人間たち。軍隊との戦闘シーン。10分程度でフィルムは傷多し、音声なし。

原 これはラッシュ手前の音声なしをつなげたものですね。花丸博士が出てきたところで「やったじゃん!ビッグXじゃん!」と思いましたね。当時、(トムス・エンタテインメントの前身である)東京ムービー 4 は人手が足りなかったため、初代社長の藤岡さんが全国津々浦々のアニメを手がけたことのある会社に片っ端から声をかけていた。で、関西圏にビッグXの発注を行っていまして、トムスの資料によるとサンプロダクション 5 という会社に発注しています。この会社は現在は無いので、何かの折に流失したものが関東に来ないで関西の方でくすぶっていたようです。で、関西の資料館に流れてきた、と。

小 (このフィルムでは)ビッグXは出てこないの?

原 昭君は出てくるけど、巨大化はしないですねー。サンプロダクションは、今はスタジオカーペンター 6 の代表で、『森は生きている』(1980年)などを手がけた山口泰弘さん 7 の出身プロダクションです。

小 こうやって小刻みに出てくるわけですね。

原 どこかにまとめてあるとは思うんですけどね。39話までと40話以降で保管場所を分けていたらしくて、40話以降はTBS管理で現存、39話までの部分がトムス(東京ムービー)の担当だったんだけど、その部分がない。

小 こうやって見てみると手塚アニメっぽさもありますね。

原 本当に撮影途中のものが流れてきた、という形ですね。

2.4大河とその支流たち(前回までのあらすじ)

原 東映動画虫プロダクションタツノコプロダクションTCJというのが現在まで分派がある4つの流派になります。

原 東映は大川博さんが日動映画を買収して設立。虫プロは手塚治虫が30分アニメを始める。タツノコプロは、最初は漫画工房としてのプロダクションだったのだけど、東映の原徹プロデューサーが『宇宙エース』(1965年)の原作を依頼。で、東映は原作買い取りのつもりだったんだけど、タツノコは二次使用希望だったため、初代の吉田さん 8は東映と決裂して、自分のスタジオを設立して、『宇宙エース』を完成させたんですね。東映は長編アニメ中心だったのに対して虫プロはTVアニメ中心。結局、東映はライバルとなる虫プロもタツノコも自分で種を撒いているんです。

原 TCJは元々はCM制作会社で、資金力も人材もあったので4大河の一つと言えるんですが、他の3つと比べて分派・社員の拡散が少なかったのが特徴です。これには立地の問題が一つあって、ほかのプロダクションは西武線・中央線沿線中心だったんですが、TCJはCM会社だったという経緯もあって、元々のスタジオは品川にありまして、後に北東部の北千住方面に移転してます。そこで西武線・中央線からさらにどんどん遠ざかっていったわけです。西武線・中央線沿線のプロダクションではプロダクション同士の人材交流が活発だったので、その流れから外れてしまった、と言えるでしょう。2つ目は『サザエさん』(1969年―)の存在で、綿々と続いているため、スタッフが固定化したという要因があります。一つのシリーズを同じ人々が、それこそ定年までずっと作り続ける、といった傾向がありました。

原 分社の例外は瑞鷹エンタープライズ(ズイヨー映像) 9 で、ここは高橋茂人さん 10 が企画を持って独立したプロダクションです。高橋さんは『アルプスの少女ハイジ』(1974年)などを手がけた優秀なアニメーターで、瑞鷹エンタープライズは虫プロと取引があったため、虫プロの血と東映の血とどちらも入っています。この瑞鷹エンタープライズが後のズイヨー映像、そして日本アニメーションに繋がっていきます 11。TCJの個人レベルの移転者は多いんですが、移転後のプロダクションの影響力の方が大きかったので、例えば芦田豊雄さん 12 なんかは、元々はTCJの人なんだけど、虫プロ系と言えるのではないでしょうか。

原 次に、スタジオの種類なんですけど、一つ目は権利も持ち、制作体制も整っている「製作会社」、二つ目は制作協力としてクレジットされることが多くて実質的に制作のメインとなる会社だけれども、権利系はもたない「制作会社」。ここは制作したそのアニメがどんなに売れても利益は少ないんです。そして三つ目は「外注会社」で、これは作画・美術などある部分だけ、あるいはあるシリーズの1話だけといった形態で請け負う下請け会社。比較的小さいんですが、裾野は非常に広くて、製作会社と制作会社を実質的に支えているのはこの部分です。80年台からは海外出しが顕著になりますね。

原 スタジオの分派・分社の要因としては、まず制作システムからくるものが一つで、これは制作能力に絡む問題。親会社のキャパが少ない場合、30分のテレビアニメ1本を作るためには3ヶ月ほどかかるため、複数のスタジオで同時並行的に制作して、ローテーションで回していくというのが通常なのですが、その過程で分社が起こるんですね。1話が終わったら次の1話を作るという手法を取っていたのは、手塚アニメの本当の初期の話で、そこでも次第にローテーション化が進んでいます。二つ目の要因としては経済的なものがあって、アニメ制作会社としては作品があるときだけの契約社員・下請けが都合が良かったというのがあります。三つ目はスタッフ側の経済的要因で、複数のスタジオから仕事を受けておいた方が途切れないため、当時は東映の正社員スタッフですらアフター5のアルバイトをするということがあって、次第に実力をつけて独立し、下請け会社となることを希望するようになっていくという流れがありました。

3.今日の本講義「商業アニメを作り上げてきた4大河とその支流たち」その2

原 まず、東映は大川博さん 13 が世界に売っていくという目的で「東洋のディズニー」というお題目を掲げて会社を起こしまして、教育映画を中心にやっていた日動映画 14 を買収したため、そこのスタッフがメインで参加してます。初作品は『白蛇伝』(1958)で、虫プロが『鉄腕アトム』を始めるまでは、1年に1本のペースで制作。2時間という枠を見てもらうため、丁寧な作画で、キャラクターの全身が入った芝居をしっかり描くという、東映の伝統的な作画技術が培われていきます。

小 現在では『プリキュア』や『ワンピース』を作っているあの東映ですね。4大河の中でもずっと同じように作っている会社。

原 常時5ラインくらい回していて、日本の最大手の会社であるのは間違いないですね。一方、虫プロは手塚治虫が自宅の一室で「手塚プロダクション動画部」としてスタートしたスタジオです。東映やおとぎプロ 15 などから人材を引き抜いて、『ある街角の物語』(1962年)などを作っていき、そして初の30分アニメーションシリーズの『鉄腕アトム』(1963年)を制作します。一回倒産した時は、漫画家としての手塚治虫自身の状況も厳しかったんですが、『ブラックジャック』(1973年)などで盛り返してきた時に新たに「手塚プロ」 16 を設立しました。虫プロも後に再建しているんですが 17 、最初のは前株で、現在ある虫プロは後株という微妙な違いがあります(笑) 旧虫プロの倒産の前の年にはマッドハウス 18 が独立し、またほぼ同時期にサンライズスタジオ 19 が独立してます。

小 (サンライズの)仕上げ部門のディーンが今のディーン 20 になったの?

 

原 『勇者ライディーン』(1975年)をやってたところがスタジオディーンになりました。サンライズといえばガンダムだけど、初期は『ハゼドン』(1972年)とかやってましたねー。もともとサンライズが目指していたのは、言い方は悪いけれど虫プロのような放漫経営ではない会社で、製作の度にスタッフを集めて作っていくスタイル。現在では正社員は少ないんだけど、事業部制を取っていたりして大きな会社になってます。そして、タツノコ系の血が入ることでメカものに強くなったのも特徴です。

原 そして、4大河のもう一つのタツノコプロは最初は吉田三兄弟から始まって、そこに笹川ひろし 21 さんらが入って作られたとても小さい会社なんです。このプロダクションの個性としては、キャラクター色の強い作品を作っていた点ですね。キャラクターデザインというものを重視し、『宇宙エース』の時からすでにキャラクターデザイン・メカデザインというクレジットが登場しています。また、エアブラシを多用して、メカなどの光沢・質感を重視し、全体としてのビジュアルを作るという傾向がありました。この傾向は竜の子制作分室アイジータツノコ 22 、そしてプロダクション・アイジー 23 に引き継がれていきます。

小 アイジーにタツノコプロパーの人はいないですよね。思想は受け継いだけど。押井守さんがぎりぎり入っているかなというくらい。

原 タツノコから別れた会社は結局近くにスタジオを立てて、別れても家族だ、という雰囲気がありますね。

小 虫プロ系はセル画が多いですね。立体が難しい漫画系のいい絵を描くのは虫プロ系で、平面的なものでそつなくこなす。

原 潰れちゃったけどグループ・タック 24 とかね。

小 アート系もタックが引き継いでましたね。

原 虫プロの意義としては、テレビアニメという無謀な挑戦をするためにはどうしたらいいか、ということを考えだしたということですね。

小 ジブリは東映系なんだけど、ジブリを出た人がどこへ行くかというと、虫プロ系のプロダクションに行くのも面白いですね。

原 ジブリに入った人は高畑さんや宮崎さんの枠の中で日常劇を中心に描いていくんだけど、その技術を受け継いでロボットアニメなんかを作っていくんですね。

小 ロボットアニメの中にジブリの、東映の血が!マッドハウスなんかもそうですね。

原 元を辿って行くと、富野さんの『ザンボット3』(1977年)なんて、『未来少年コナン』(1978年)コンプレックスがあったじゃないですか。アニメーション的なちゃんとしたものをやりたかったけど、人材が揃わなかったという。

小 結局、『ターンAガンダム』(1999年)に至るまで地に足をつけた作画を手に入れることはできなかったわけですね。ところで、ガイナックスは4大の流れの中には入らないんですか?

原 一時期は虫プロ系に無理やり入れてましたけど、いろいろですよね。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)のパイロットフィルムなんかは宮﨑さんぽくて、イメージボード至上主義とか、目指す所はジブリ的な宮崎アニメなんだけど、東映の血を若干受け継いでいるような感じもしますね。

小 一番近いのは宮崎アニメだけど、それが即東映というわけではない、と。

原 ビデオのコマ送りなどを通して独学で学んでいるので、間接的に東映の教えを受け継いているのだと思います。

小 押井さんは2002年の時点で「流派なんかないよ」と言っているけど、影響はあるんですよね。

原 会社としての枠組みは残って、人は入れ替わっていく。でも作品としての履歴は残っているわけです。

4.「東映らしさ」とは何か?

小 東映動画には4つの流れがあるということですが…。

原 東映動画のカラーっていうのは、50年にわたる年月の間に様々な人が携わっているので一言では言えないんですね。よく、「東映動画っぽく」とか「東映動画調」って言われるんだけど、何を以ってそう言えるのか、という問題です。『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(1962年)まで 25藪下泰司さん 26 が全て監督をしていたんだけど、『白蛇伝』の翌年に高畑勲・池田宏 27 ・黒田昌郎 28 が監督候補生として入社。当初は7人いたんですが、当時、1年に1本の長編しか作っていなかったこともあって、結局試験の結果この3人に絞られたという経緯があります。ところが、新東宝の方から芹川有吾さん 29 がダークホースとして来てしまったことで、実際に彼らが監督になるのは6年ほどあとになります。

小 (スライドを見ながら)プレ撮影組というマニアックな単語がありますね(笑)

原 彼(芹川有吾)が『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)を監督して、その次は白川大作さん 30が60年2月に出向として入ってきてしまったために、59年組のデビューはさらに遅くなってしまった。59年組の監督たちの特徴としては、それまでの楽しい活劇調の作品ではなく、社会的な問題意識を長編アニメに取り入れて行きたかったという共通点があります。その後はいろいろに別れてしまうのだけど 31 、彼らの時代の作品をもって「東映的」と言えるのではないでしょうか。

小 この時代とその後ろということですか?

原 そうですね。当時のテレビアニメというものは、東映の伝統的な手法からしてみればいわば反則だらけだったんですけれども、それへのアンチテーゼとしての伝統的な長編アニメを綿々と作っていくというスタイルです。作画主導主義の燻りのようなものといってもいいかもしれません。

原 次の流れとしては、東映の東京・京都撮影所からの移籍組。テレビアニメのキャパが限界にあったということと、実写映画の助監督組は上が詰まっていてなかなか監督に出世できなかったという事情が重なって、多数の人が東映動画にやってくる。彼らが最初に感じたのは「なんて静かな現場なんだ」ということ(笑)廊下を走って怒られたというエピソードも…。ところが、実写では簡単にできるカメラワークが簡単にできなかったという事情がありまして、彼らがやりたかったテーマとか技術はしばらくのあいだ封印されていました。勝間田具治さん 32はあおり構図とかやりたかったのだけど、カメラは基本的に真正面なんだよね(笑)で、外注の窪さん 33 があおりができる、ということで感動したりして、彼らを満足させる技術は外注など、東映の外からやってきたわけです。森利夫さん 34 もそうですし、木村圭一郎さん 35 はのちの金田アクションなどに繋がる様々な革新的な技術を作っていきます。実写からの移籍組の彼らはやりたかったことというのは、生々しい現実というものをですね、高畑勲さんや池田宏さんたちがファンタジーに潜ませて描いたのに対して、ドキュメンタリータッチで描くというものです。これが、伝統的な東映動画とは少し異なるんですが、TVアニメの一つの時代、一つのムーブメントを作ったと言えますね。

小 社会派的な作品というのは芹川さんが主導したんですか?

原 『魔法使いサリー』(1966年)の時に、貧困だけど明るく生きるクラスの一少年にスポットを当てる話があって、一方で、芹川さんが『サイボーグ009』(1966年)「太平洋の亡霊」(第16話)を描いています。

小 『タイガーマスク』(1969年)の時はそんな話多かったですね。

原 申し訳程度にレスラーと試合したりね(笑) 時にはまったく戦わない話があったり。梶原一騎さんの原作自体が、それまでのSFやギャグと違って、地に足の着いた人々が主人公の話なので、社会的な問題が入れやすかったという面はありますね。

原 第3の流れとしては、人員が足りないために、テレビのために外注組が採用されるということがありました。彼らは64年ころに採用されまして、劇場アニメの経験値は低かったんですが、高畑さんや勝間田さんなどの劇場アニメの巨匠と接する機会があって、ここで経験を積んでいきます。継続的な採用はなかったんですが、70年台に森下孝三さん 36 らが追加採用されてます。

原 第4の流れは佐藤順一さん 37 のような東映動画研修生組で、アニメブーム以降のことなので、彼らは基本的にアニメ好きだし、絵が描けて、演出や作画のチェックもできたんです。佐藤さんなんかは漫画的な表現をアニメの中に大胆に取り入れていきましたね。『きんぎょ注意報!』(1991年)なんかで顕著だけど、一旦、漫画原作であることを受け入れて、その上でアニメを作っていくというスタイルです。彼らの良質なアニメを作りたいという思いを阻害したのは3,500枚という枚数制限だったけど、カッティングなんかに工夫を凝らすことで、その制限の中でどのように良い物を作っていくかということに腐心したんですね。

小 ビジュアルのコントロールをするようになったのもありますよね。

原 西尾大介さん 38 なんか3,500枚制限の中で『ドラゴンボール』(1986年)を作ってしまうという(笑)

小 少ない枚数でどれだけダイナミックに作れるか、ということですね。

原 この時期に、いかに少ない枚数で話をもたせるか、という技術が確立されたんです。『きんぎょ注意報!』の劇場版(1992年)とか、ぎょぴちゃんの目がぐるんと回転するとこなんか2コマだけどちゃんと動いているように見えるし、『GS美神』(1993年)ではギャグを言ってからどれだけ硬直しても大丈夫か、という挑戦がなされたけど、ちゃんと面白いし、節約になっていますよ。その一方で、東映アニメーション研究所 39 では、伝統的な東映動画のちゃんとした作画芝居を教えていたりもします。

小 この東映アニメーション研究所には原口さんも携わってましたよね。

原 最初から最後までいましたよ!この研究所はかなり少数精鋭だったので、生き残り率高いと思いますよ。

5.外注スタジオの源、「ハテナプロ」

小 この「ハテナプロ」っていうの、私もほとんど知らないんですけど…。

原 ここはですね、外注スタジオの源流といえる存在なんです。東映にいた永樹凡人さん 40 たち(+香西隆男さん、小泉謙三さん、我妻宏さん)4人が独立して設立したプロダクションで、ピープロ 41『ゼロ戦はやと』(1964年)とTCJの『鉄人28号』(1963年)を外注でやってます。全員が64年の2月に退社してハテナプロに合流していますね。最初の2,3年は人員は増えていません。香西さんに取材したんですが、あまり記憶が無いんですねー。で、『ゼロ戦はやと』は全話リストがないんです。『少年忍者風のフジ丸』(1964年)が最初に手がけた作品なので、この作品のクレジットを突きつけることで香西さんに思い出してもらう、ということですね。

『風のフジ丸』、『鬼太郎』、『魔法使いサリー』等のクレジットを延々と見ていく。会場もヒートアップ!

原 クレジットは有効に使おう!植木幸子誰だ!ということで香西さんに聞くと「我妻さんの奥さんになった人だよ」とのこと!初めて登場した人はどんどんメモっていきます!クレジットを辿って行くと、香西さんの記憶と一致して実際に40人増えている。知らない人が出たら新人が出たぜ!とメモっていく。ずーっと見ていくと、班体制としては比較的安定していたことがわかりますね。1966年7年あたりがどんどん新人が入っていて、アナグマプロ 42 から移ってきた人も多いですね。

小 ハテナはいつまであったんですか?

原 69年の秋に、『冒険ダン吉』のアニメを作るという話があって、その時にカメラを買う計画があったんですが、経理が使い込みしてカメラが買えなくなってしまったんですね。それで代表の永樹さんが会社経営に疲れて辞め、アナグマ組がオープロダクション 43 として独立。香西さんは会社にあった機材を購入し、一旦ハテナを閉めて、翌年スタジオジュニオ 44 を設立する、という流れですね。

小 総括としてハテナプロの意義とは?

原 当時、かなりの数を手がけていて、虫プロ系の『鉄腕アトム』『リボンの騎士』(1967年)にも参加して月産量がかなり多かったという点ですね。クレジットから起こしたリストを見ていくと、ひと月に手がけた作品が異常に多くてリストが全然途切れない(笑)

小 さて、次回からはTVアニメ50年史をイベントでやります!隔月1回で5年分ずつ。現在Webアニメススタイル( http://animestyle.jp/ )の「TVアニメ50年史のための情報整理」( http://animestyle.jp/special/tv-anime50th )に追記していく形です。次回は2月予定!

まとめ

 というわけで、今回も非常に濃ゆい講義でした!簡単にまとめては見ましたが、正直言って話がコロコロ転がるし、固有名詞は全然拾えないしで、書かれている内容はイベント時の情報量の3分の1程度です(笑)つまりなにが言いたいかというと、興味がある人はイベントに来てください!ということです。まあ、阿佐ヶ谷ロフトは微妙に遠いし、席はせまいので正直きついですが(笑)やっぱり細かいニュアンスとかは実際に見てみてみないと、と思うわけです。次回は2015年2月とのことなので、気になる人は要チェックですよ!

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関連リンク

■Webアニメスタイル http://animestyle.jp/

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NOTES

  1. 「ビッグX界」とはシリーズ前半エピソードの大半が未発見になっている『ビッグX』を発掘する業界のこと。非常にせまい。後述するようにチマチマと意外なところから出てくる。
  2. 渡辺泰(わたなべやすし)。アニメーション研究家。参照URL: http://goo.gl/EzYF9t
  3. トークではプラネット資料館と仰っていて、この神戸映画資料図書館の姉妹館として大阪に「プラネット映画資料図書館」というものがあります。ただ「神戸」と言うことなので、こちらの資料館だと思います。 公式URL: http://kobe-eiga.net/
  4. 株式会社東京ムービー。1964年設立。TBS系列。1993年に解散し、2000年に株式会社トムス・エンターテイメントに商号変更。代表作は『ビッグX』、『ルパン三世』(第1期、第2期)など多数。
  5. 大阪の電飾広告会社。TVアニメ創成期に、本業とは別にTVアニメ制作にのりだす。『オバケのQ太郎』(1965年版)や『ロボタン』(1968年版)など。
  6. 1980年設立。東京都練馬区。佐藤好春さん、名倉靖博さんらの出身プロダクションでもある。
  7. 山口泰弘(やまぐちやすひろ)。ネオメディア出身。主に東映の作品を手がける。1980年に株式会社スタジオカーペンターを設立。主な作品は『ルパン三世』(第一期)、『サイボーグ009 超銀河伝説』など。
  8. 吉田竜夫(よしだたつお)。独学で絵を学び、1945年頃から挿絵画家・漫画家として活動。1962年にタツノコプロダクションを設立。
  9. 瑞鷹株式会社として1969年に設立。『忍風カムイ外伝』(1969年)などを制作し、1973年にアニメ制作部門としてズイヨー映像を設置。『山ねずみロッキーチャック』(1973年)、『アルプスの少女ハイジ』(1974年)など。
  10. 高橋茂人(たかはししげと)。1956年TCJ入社、69年に瑞鷹エンタープライズを設立して独立。『アルプスの少女ハイジ』(1974年)など。
  11. 1969年、瑞鷹エンタープライズ設立 → 1973年、ズイヨー映像設立 → 1975年、ズイヨー映像のスタッフの大部分を連れて本橋浩一さんらが日本アニメーションを設立。事実上、ズイヨー映像の実制作部門を引き継ぐ。これ以降、ズイヨー映像は版権管理を主な業務とするようになる。
  12. 芦田豊雄(あしだとよお)。TCJ動画センター()から虫プロに移籍(ca. 1969年)、その後1973年の虫プロ倒産と『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)を経て、1976年に有限会社スタジオ・ライブを設立して独立する。2011年没。
  13. 大川博(おおかわひろし)。鉄道省から東急電鉄にヘッドハンティングされ(1942年)、51年に東京映画配給株式会社の社長に就任。当時、東映は映画事業を中心としていたが大川はテレビ産業が発展すると見込み、56年に日動映画株式会社を買収し、東映動画株式会社を設立した。
  14. 日動映画株式会社。1948年に政岡憲三らによって日本動画株式会社として設立。『すて猫トラちゃん』など。
  15. おとぎプロダクション。『フクちゃん』などで知られる漫画家の横山隆一によって1956年に設立された。翌57年の『ふくすけ』でブルーリボン賞を受賞。61年には日本最初期のTVアニメシリーズである『インスタントヒストリー』を制作する。
  16. 株式会社手塚プロダクション。1968年に設立された、手塚治虫の漫画制作・管理会社。これ以降、アニメ制作は虫プロ(旧)、漫画制作は手塚プロという住み分けがなされるようになる。
  17. 1977年
  18. 株式会社マッドハウス。1972年に虫プロ(旧)の社員だった丸山正雄、出崎統、りんたろう、川尻善昭らによって設立。設立の契機となったのは虫プロの経営不振だった。90年までは下請けがメインだったが、90年台に入って自社制作を始める。個人的には『カードキャプターさくら』(1998年)の会社ですね。
  19. 有限会社サンライズスタジオ。1972年、虫プロの経営不振を契機として、同社の制作・営業部門に所属していた岸本吉功、伊藤昌典、山浦栄二らによって設立。76年に株式会社日本サンライズ、87年に株式会社サンライズに商号変更。虫プロ(旧)の崩壊を間近で見てきたスタッフが中心となって設立された会社であるため、「クリエイターが経営に関与しない」という経営ポリシーを持つ。
  20. 有限会社スタジオディーン。1975年に、『勇者ライディーン』の制作をきっかけに、サンライズスタジオの仕上検査部門にいた長谷川洋によって仕上専門会社として独立。1982年より制作業務に携わり、シンエイ動画の『ドラえもん』制作協力などを行う。1994年に株式会社化。
  21. 笹川ひろし(ささがわひろし)。タツノコプロの創立時から参加している演出家。マンネリギャグを得意とし『タイムボカン』シリーズを生み出した。シリーズ第5作『ヤットデタマン』の「ささやきレポーター」のモデルとしても有名。
  22. 有限会社アイジータツノコ。1987年、『赤い光弾ジリオン』の制作のために集められた「竜の子制作分室」のメンバーと同じフロアにいた後藤隆幸らの「鐘夢」(チャイム)を合わせて、石川久光が設立。シンエイ動画のTVシリーズや『銀河英雄伝説』などの制作協力を行う。
  23. 有限会社プロダクション・アイジー。1993年に有限会社アイジータツノコが商号変更して成立。98年に株式会社化。
  24. 株式会社グループ・タック。1968年、虫プロ(旧)の音響監督だった田代敦巳が杉井ギサブローらを誘って設立。当初は音響制作が中心だったが、75年の『日本昔ばなし』を契機として制作元請を開始。2010年に準自己破産。『銀河鉄道の夜』など。
  25. 『白蛇伝』(1958年)、『少年猿飛佐助』(1959年)、『西遊記』(1960年)、『安寿と厨子王丸』(1961年)の4本
  26. 藪下泰司(やぶしたたいじ)。日本動画映画出身。東映に買収後も引き続き所属し、日本最初の長編カラーアニメ映画である『白蛇伝』(1958年)の監督・演出で好評を得る。1986年没。
  27. 池田宏(いけだひろし)。1959年に東映入社。『空飛ぶゆうれい船』(1969年)や『どうぶつ宝島』(1971年)を監督。85年に東映を退社し、任天堂でゲームソフト制作を行う。
  28. 黒田昌郎(くろだよしお)。東映では『狼少年ケン』(1963年)などを、移籍した日本アニメーションでは『フランダースの犬』などを手がける。
  29. 芹川有吾(せりかわゆうご)。新東宝に入社するが、『白蛇伝』に衝撃を受け東映に入社(1959年)。初監督の『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)では新東宝的な本格的演出手法を導入したことで好評を博す。2000年没。
  30. 白川大作(しらかわだいさく)。wikiがないのですが、WEBアニメスタイルのインタビューがかなり力入ってるのでこちらでどうぞー → WEBアニメスタイル 「■東映長編研究 第9回 白川大作インタビュー(1)東映入社と『白蛇伝』」
  31. 高畑勲は1971年にAプロダクション(現在のシンエイ動画)に移籍、池田宏は1985年に任天堂入社、黒田昌郎は日本アニメーションに移籍(ca. 1975年)。
  32. 勝間田具治(かつまたともはる)。映画製作会社の方の東映に入社し、工藤栄一監督、マキノ雅弘監督らの助監督をつとめる。京都撮影所出身。1964年に東映動画に移籍し、『デビルマン』(1972年)、『マジンガーZ』(1972年)などで評価を得る。現在でも東映アニメーション最高齢の現役演出家(2014年現在で76歳)。
  33. 窪詔之(くぼつぐゆき)。タツノコプロ出身。『マッハGOGOGO』など。現在でも現役の作画監督。
  34. 森利夫(もりとしお)。主に東映とサンライズの作品に携わる。『タイガーマスク』(1969々)など。
  35. 木村圭一郎(きむらけいいちろう)。東映出身で1969年頃に作画スタジオである「ネオメディア」を設立。ネオメディアは北久保弘之さんなどの出身プロダクション。『レインボー戦隊ロビン』(1966年)、『ドカベン』(1976年)など。
  36. 森下孝三(もりしたこうぞう)。1970年に東映製作部に入社。勝間田具治のもとで演出を行う。88年に企画部に異動し、『ドラゴンボール』シリーズなどの企画を担当。
  37. 佐藤順一(さとうじゅんいち)。1981年に東映動画の第一期研修生として入社。88年に東映を退社するが、その後はフリーで活動し、東映作品である『美少女戦士セーラームーン』(1992年)や『おジャ魔女どれみ』(1991年)のシリーズディレクターを手がけるなど、多数の作品の監督・ディレクターをつとめる。個人的には『ふしぎ星の☆ふたご姫』(2005年)と『劇場版ケロロ軍曹』全5作(2006年-2010年)の人!
  38. 西尾大介(にしおだいすけ)。1981年に東映動画に第一期研修生として入社。大胆な演出を得意とし、『ドラゴンボール』シリーズ(1986年)のシリーズディレクターをつとめる。
  39. 1995年に東映アニメーションによって設立された人材育成機関。当初、神田駿河台に設置され、後に東大泉に移転する(2006年)。トーク中では1年ほど休止期間があったとのことなので、この移転の頃のことだと思われる。ディレクター専攻、アニメーター専攻、美術デザイナー専攻、声優科・声優タレント研究科等が設置され、2011年に閉所するまで、延べ1,000人以上の卒業生を輩出した。
  40. ながきふさひろ。別名義として永樹凡人。昭和20-30年代にかけて貸本の少女漫画家として活躍。1961年に東映動画に入社、64年に退社してハテナプロを設立。東映、虫プロ、ピープロなどの下請けを担う。
  41. 株式会社ピー・プロダクション。1960年に漫画家のうしおそうじらによって設立。ドキュメンタリー映画、特撮の合成などで評価を得る。64年の『ゼロ戦はやと』を契機としてTVアニメ制作に乗り出す。特撮では『マグマ大使』(1966年)なども有名。
  42. すみません。ネットだと全く引っかからないですね。例の『ビッグX』(1964年)の制作協力をやっていたようですが…。
  43. 有限会社オープロダクション。1970年にハテナプロの塩山紀生らによって設立。Aプロ、東映、日本アニメーションの作品に参加。スタジオジブリ作品にもクレジットされている。
  44. スタジオジュニオ株式会社(現・ジュニオブレイントラスト株式会社)。1969年、ハテナを離れた香西隆男によって設立。東映動画、東京ムービーの作品外注を手がける。最盛期は120人以上のスタッフを抱える制作会社となった。『ガンドレス』は検索してはいけない。